バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時…
画像ギャラリーバブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第106回は、「メガネについて」。
ハゲて太ったが、目だけは良かったのに
「ハゲ」「デブ」「メガネ」を、中年男性の三重苦というのだそうだ。
これらの姿態が醜いかどうかはさておき、たとえばテレビのトレンディ・ドラマで活躍するようなナイス・ミドルは、およそこれに該当しない、ということは言えるだろう。
さしずめ田村正和さんという俳優はその典型である。若い時分はどうとも思わなかったが、その後のわが身の変容にひき比べてみれば、ほぼ20年まったく変わらぬその容姿は、まこと神を見るようである。
古谷一行さんには拙著「プリズンホテル」の主役を演じていただいているので実際にお会いした。やはり神の如きお姿であった。
ご両者ともまさにうっとうしいほどの総髪で、もちろん腹は出ておらず、メガネもかけていない。
「あの人はパパより年上なんだよ」
と、テレビを見ながら言えば、娘はうんざりとした顔をする。中年オヤジの常として同じことを口にすれば、しまいには「るさいわねえ。わかってるわよ」と怒鳴られる。
ああいう人たちは、さぞかしモテるであろうと、しみじみ思う。容姿端麗であるうえに、年なりの「貫禄」「財力」「手管」等、その他もろもろの人間的実力が備わっているのだから、チャラチャラした若者などまさに鎧袖一触(がいしゅういっしょく)に競り落とすであろう。
しかしテレビの前を離れて現実に目を戻すと、ハゲでもデブでもメガネでもない40過ぎの男は、たしかに稀である。
私の場合、はようからハゲであった。以前に本稿でも詳述したが、20代で予兆が見られ、30で分け目を下げざるを得なくなり、35をしおに、一気呵成(いっきかせい)に絶滅した。
ハゲはとどめようがないと知ったことから、少くともデブにはなるまいと日々の節制を心がけるようにした。それでもかつて50キロばかりしかなかった痩軀は、さしたる理由もなく、容易に60キロ台に乗った。現在はその程度を何とか維持しているが、けっこうな努力を要する。いずれ気力が衰えるか、まちがって小説が売れだすかしたら、たぶん一気に肥満するであろうという予測は立つ。
しかし、私には第3の牙城があった。ガキのころから常に2.0以上の、抜群の視力を誇っていたのである。ために学生時代は最後尾の席で弁当を食ったり小説を書いたりし、自衛隊時代は鉄砲が良く当って狙撃手を命ぜられたりし、アウトロー時代はいつも見つかる前に見つけるので、何度となく危機を免れた。
ところが恐ろしいことに、40になってからきたのである。
ふつう近視眼は小中学生のころ、遅くとも20歳前に現れる。それは医学的な常識だと思うのだが、あろうことか齢40にして立派な近眼になってしまった。
突然目が悪くなった当然の理由
異常に気づいたのは競馬場であった。オッズの配当表示が見づらくなったのである。具体的にはまず、「6」と「8」との判別がつきにくくなった。
私は生来マカふしぎな博才に恵まれており、永らく競馬を糧道としていた。食うための競馬というものはすべからく数字との格闘である。ことに多くの場合に、勝負馬券となりうる6倍とか8倍の表示がアイマイなのは極めて不都合であった。
もともと視力については信仰にも近い自信を持っていたので、これは世に言う「カスミ目」というやつだな、と思った。で、テレビのCMでカスミ目に効くとか言っている目薬を使ってみたが、状態はいっこうに改善されない。そのうち「3」だか「5」だか「6」だか「8」だかわからなくなった。
同時に動体視力もハッキリと落ちた。2.0の驚異的視力を誇ったことには、レース終了後泰然として、
「いやあ、柴田の形相は必死でしたが、ウイニングチケットの脚いろにはまだ余裕が感じられましたねえ。ハッハッハ」
などと言っていたものが、騎手の顔色どころか服色も帽子の色もごちゃごちゃになり、そのぶん冷静さを欠くようになった。
「追えっ、柴田! 逃げろ、岡部! わわっ、何だ、ありゃ何だ! 何が来た、わからねえっ!」
などと、見苦しく絶叫するようになったのである。もちろんレース中の微妙な展開も、パドックでの馬の様子も見えにくくなった。いきおい予想も重大なスランプに陥った。
折しもわが家人は、週末になればお金が入ってくるものだと思っていた。だから土曜日には早朝から「仕事よ、仕事」と、亭主を叩き起こし、夜には「もう一日あるからね」と無理無体に寝かしつけたものであった。
つまり、週給制の家計に週末の給料が入らなくなったのである。しきりに頭痛を訴え、物を見るときに眉をしかめるというかつてない亭主の癖から類推して、視力減退という診断を最初に下したのは彼女であった。
この際ノイローゼでもスランプでもなく、まず視力を疑ったというのは、家人がいかに亭主の実力を信頼していたかの証しであろう。
絶対ちがう、と私は言い張った。ムキになったのには根拠がある。私は小さいころから、3つちがいのメガネの兄を「ヤーイ、ヤーイ」といじめており、人の親となってからもメガネの娘を「ヤーイ、ヤーイ」といじめていたからである。骨肉の復讐は怖ろしかった。
とりあえず病院に行ってもなお、近眼ではなくなんらかの内臓疾患であろうとの自己診断により「内科」を受診した。ひどい甘党なので糖尿病か何か、もしくは血圧の関係か何かで一時的に目がかすむのであろういう、ものすげえ解釈である。
頭が痛えの、オッズが見えねえのと、症状をありていに語った。と、メガネの内科医はアホらしそうにカルテを眼科へ回してしまった。
眼科受診の際に宣言した。
「子供のころから目だけはいいのです。だからきっと血圧か糖尿じゃねえかと思うんです。きっとそうです」、と。
すでにハゲデブであった私は、それぐらいメガネを怖れていた。
非情の診断が下った。左右0.3。
「これは何かのまちがいだ。ガキのころならまだしも、40になって近眼になるなんて聞いたことがねえ」と、私は眼科医に食ってかかった。
医師は今さらジタバタするなという感じで、「いやふつうはそうだけど、タマにあるのですよ」と、答えた。私はふつうではないタマの人なのであった。
「最近急に目を酷使するようなお仕事をしていませんか?」
している。近ごろようやくマジメに小説を書くようになった。
一瞬、シマッタと思った。本当はガキのころに目が悪くなるはずだったのだ。人並の努力を怠り、40になってようやく人生を取り戻そうとした結果が、これなのだ。怠惰な遊侠の日々の記憶が、走馬灯のごとく衰えた視野のうちをめぐった。
「メガネをかけなきゃ、ダメですよ」
私は力なく肯いた。
思えば数年前、いやがる娘を連れてここへ来た。やはり「メガネをかけなきゃダメだよ」と同じことを言われ、小さな肩をガックリ落として肯いていた娘の姿を思い出した。
娘は尻を叩かれて勉強した結果、小学生のうちにメガネをかけ、怠惰であった父親は40になってようやくメガネをかけた。そうした必然の経緯を、私は恥じねばならなかった。
かくて私は30でハゲ、35でデブ、40でメガネという三重苦を体現することとなった。
ところで先日、吉川英治新人賞という立派な文学賞をいただいた。4月の初めに帝国ホテルで授賞式がある。
メガネをかけた自分の顔は嫌いだが、ちゃんとかけて行こうと思う。私にとってのメガネは、43まで怠惰な暮らしをして、家族や肉親にいらぬ苦労をかけた烙印なのだから。
(初出/週刊現代1995年3月25日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。