浅田次郎の名エッセイ

突然売れっ子作家となった浅田次郎 襲いかかった“殺人的オーバーワーク”

3、4日目一泊二日の北海道出張。その間ずっと執筆も 9月21日(土)。宇野浩二、広津和郎、宮沢賢治、トリプル命日。イヤな予感。 昨夜は寝ずに原稿、明けがたに机上に俯伏せてまどろむ。午前6時30分起床(正しくは起机)。 不…

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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第116回は、「オーバーワークについて」。

初日大坂往復、2日目写真誌密着&文学賞授賞式出席

9月19日(木)。正岡子規命日。今東光命日。

午前5時就寝。午前7時起床。血圧90〜60。やや不整脈。ただちにシャワーを浴び体重測定。夏場8キロ減のまま回復せず。

万が一にそなえ家族犬猫に永訣を告げて東京駅へと向かう。

金持版元「駿河屋」の番頭に両脇を支えられつつ下阪。途中、携帯電話に「音羽屋」より大重版の吉報あり、血圧少し戻る。続けて「汐留屋」より既刊3冊重版とのこと、不整脈なおる。

新大阪駅到着後、プラザホテルにて憧れの小松左京先生と対談。すばらしい記憶力に驚愕。溢れ出るディレッタンティズムに感嘆。対談というより、有難く拝聴。

夕刻、帰途につく。新幹線個室にて明20日締切予定の原稿執筆。その間、携帯電話鳴りっぱなし、遅々として進まず。目の前がまっ暗になったと思ったら、トンネルであった。

夜半、自宅に生還。失神するように仮眠。

9月20日(金)。彼岸の入り。

亡父夢枕に立ち、墓参に来いと催促。ケッ、墓参りに行くより前(め)ェに。そっちに行っちまいそうだぜ、と悪態をつく。

午前1時就寝、午前5時起床。再び脈拍不整。ビタミン剤、胃薬、栄養ドリンク、その他何だかわからん薬をまとめて服用。少々夢見が悪かったので、墓所の方角に端座し、家訓奉読ののち執筆。

午後2時、おめかし。なるたけ健康そうに見えるディオール&カルバン・クライン。銀座へすっ飛ぶ。車中、なぜかトルーマン・カポーティ夢に現わる。おまえの顔なんて見たくない、ヘップバーンはどこだと罵れば、突然ムーンリバーを唄いつつ、アンディー・ウィリアムス出現。すわ生霊か。ともかく夢見悪し。

日航ホテルロビーにて「音羽屋」写真週刊誌の一団と会い、インタヴュー。これより3日間にわたり密着取材というそら怖ろしい企画。プレッシャーのあまり嘔吐。頻脈。

午後5時、クラブ「早苗」にて写真撮影。ウーロン茶を牛飲。脈拍やや安定。

午後6時、一団に支えられて帝国ホテルへ。江戸川乱歩賞授賞式に出席。「紀尾井屋」の番頭現われ、月末締切の短篇を大幅増枚せえと言う。血圧、急激に降下。

と、そこに天使の如き藤原伊織氏現われ、福音を授けらる。何となく幸福な気分になる。

と、そこに悪魔の如き「京橋屋」大番頭現われ、6月締切のままほっぽらかしの原稿催促。再び血圧降下。その後、天使と悪魔こもごもに現われ、パニック。すべての罪を笑ってごまかす。

午後7時、混乱のさなか「汐留屋」大番頭とともに離脱に成功。東京ドームへと向かう。途中、密着取材の写真週刊誌一団の追跡を振り切る。

ネット裏にて巨人vs.中日戦を観戦。任意の顧客となってバカッ騒ぎをする。しかし、吉村の代打ホーマーに歓声を上げて立ち上がったとたん、前方よりフラッシュ炸裂。満員のスタンドのただなかでポーズをとらされ、ものすごく恥ずかしい思いをする。聞きしにまさる写真週刊誌のしぶとさに呆然。

ジャイアンツめでたく勝利し、群衆とともにドームを出れば、篠(しの)つく雨であった。南方海上に台風接近すという。とっさにシメシメこれで明日の北海道行きは中止だな、とほくそ笑む。

銀座にて待つ、という「紀尾井屋」との約束を反古(ほご)にし、「汐留屋」とともに新宿に至り、パークハイアットで食事。午前1時帰宅。

3、4日目一泊二日の北海道出張。その間ずっと執筆も

9月21日(土)。宇野浩二、広津和郎、宮沢賢治、トリプル命日。イヤな予感。

昨夜は寝ずに原稿、明けがたに机上に俯伏せてまどろむ。午前6時30分起床(正しくは起机)。

不幸にして飛行機は飛んでいるという。ただちに羽田へと向かう。車中にて失神。夢も見ず。目覚めてのち、家族犬猫に永訣の言葉をかけなかたことを悔やむ。

イヤな予感を振り払い、突如として軍歌「歩兵の本領」および「討匪行(とうひこう)」を高吟する。運転手おびえる。

ANAフロントにて、JRA担当者お待ちかね。仕事の内容は月刊誌「優駿」の「函館競馬観戦記」取材である。日程の都合上、開催最終週の函館行きとなってしまった。つまり、後がない。

8時50分フライト。連休初日で満席。ストレスと天候不良のため、酔う。頭痛、吐き気、目まい、もはやこれまでという気がする。折も折、携帯電話さかんに鳴る。そのつど「ひとごろしッ!」と、コール・バック。スチュワーデスに叱責される。

函館空港より競馬場へ直行。スタンド入り。

バクチも今生の打ちおさめという気がし、冷静さを欠く。しかも、台風が来ておるのだから馬券も荒れるであろうという、甚(はなは)だ非科学的根拠により、惨敗。

メインレース「函館三歳ステークス」のゴール直後、失神。混濁せる意識のうちにフト考える。書斎で死ぬならまだしも函館競馬場のスタンドで客死では、文壇の笑いぐさであろう。ほとんど「無法松の一生」であろう、と。

勇を鼓して起き上がり、よろめきつつパドックへ向かう。山口瞳先生のまぼろしを見る。大橋巨泉さんの生霊も見る。スタンドへ引き返すとき、敷居に蹴つまずいて転ぶ。相変わらず鳴り続ける携帯電話を杖にして立ち上がり、最終レースに法外の勝負。当然惨敗。ケツから二頭を馬番連単で的中させる。気をたしかに持っていたので失神せずにすんだが、少々失禁。

般若心教を唱えつつホテルへ帰る。

ベッドに倒れこんだとたん、電話が鳴る。密着取材の写真週刊誌記者から、ただいま到着の報せ。到着って、どこに到着したのだと問えば、函館ですと言う。仰天。

意識朦朧(もうろう)状態のまま市中にてJRAのみなさんと会食。ウーロン茶を牛飲。夜半ホテルに戻り、エロビデオも見ず、昨日締切の原稿を書く。物語、詰まる。おとといからクソも詰まっている。

泣く泣く「駿河屋」の女性編集者に原稿遅延のむね電話を入れる。

(あまりご無理をなさらないで下さいね。お気をつけて)とか、やさしいねぎらいの言葉をかけてくれるかと思いきや、突如武闘派の声で、

「そーですか。では連休明けまでは待ちましょう。火曜日午後5時、いいですね」

枕に顔を埋めてしばらく泣いたのち、写経。

9月22日(日)。台風接近。

東京は暴風雨だという。できれば文京区音羽、千代田区駿河台、同紀尾井町、港区汐留あたりが壊滅していれば良いと祈る。

午前5時30分就寝、同7時30分、写真週刊誌の一団の手で眠ったまま朝市へと拉致される。雑踏の中で撮影。羞恥心まったく感じず、タラバガニの山の中に自分の首が置かれているまぼろしを見る。

「青函丼」なる朝食を食った記憶があるが、詳細不明。赤レンガの倉庫群に移動し、さらに撮影。タクシーの中で血圧急激に低下、臨死体験をする。お花畑の向こうで、亡父、おいでおいでをし、やだやだと拒否する。

競馬場で撮影後、ゴンドラ席へ招かれる。ソファで寝るわけにも行かんので、眠気ざましに馬券を買い、失神。かつ失禁。

台風が北上しているので帰りの飛行機は飛ばんかも知れんとの噂。もう矢でも鉄砲でも持ってこい、台風ならなおいい、という気分であった。

不幸にしてJALは飛んだ。当然の如く無茶苦茶に揺れ、嘔吐、不整脈、過呼吸。ほとんど多臓器不全。

ついに羽田空港到着ロビーにて死亡。と思いきや、売店店頭に『蒼穹の昴』『天切り松闇がたり』の両著ヒラ積み状態を見て、にわかに蘇生。

書かねば……と呪文のように呟きつつ、吐瀉物と糞尿にまみれて帰宅。

かくて私は、本稿を書いている。午前5時30分。脱。稿。

頭も体も限りはあるが、勇気は全能だ。

(初出/週刊現代1996年10月19日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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