松平定知の「一城一話55の物語」

原城に籠城した天草四郎、母は泣き崩れた 「島原の乱」は西洋と日本を分断する大事件だった

原城(「Webサイト 日本の城写真集」より)

『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。

「鎖国」が完成

島原の乱は、天草四郎という美少年が中心となったキリシタンの叛乱と思われていますが、事実は重税に耐えかねた農民たちに、迫害されたキリシタンが加わった一揆というのが事実です。ただ、日本史を振り返ると節目となる大事件だったことがわかります。

天文12(1543)年、種子島に鉄砲が伝えられ、キリスト教も伝来。この頃から日本は西洋に触れるわけですが、島原の乱が鎮圧された翌年の寛永16(1639)年、江戸幕府はキリスト教の厳禁とポルトガル船の来航禁止を決め、いわゆる「鎖国」が完成するのです。

見方を変えれば、このわずか100年足らずが西洋文化に触れた期間で、以来嘉永6(1853)年、ペリー艦隊が浦賀に来るまで、日本は世界のなかで独自の道を歩むことになります。その意味で島原の乱は、西洋との付き合いを断ち切る大事件だったのです。

原城跡 Photo by Adobe Stock

贅沢好きの大名が重税を課した

島原の乱は、島原藩の松倉勝家と、唐津藩の飛び地だった天草諸島を治めた寺沢堅高の苛烈な税の取り立てに農民が蜂起して始まりましたが、そこに小西行長や加藤忠広、佐々成政といった大名の改易で発生した浪人たちが加担したことで、大きなうねりとなりました。

島原の地は、雲仙岳の火山灰で土地が痩せているにもかかわらず、松倉勝家という贅沢好きの大名が、島原城の新築や江戸城普請のお役目のため、領民に重税を課しました。子どもが生まれれば人頭税、いろりを作ればいろり税という具合に、ことあるごとに税を搾り取るのですからたまりません。

さらにここはキリシタン大名・有馬氏の領地で、キリシタンが多かったのですが、幕府の大弾圧を受けます。いっぽう天草は、キリシタン大名・小西行長が治めていた地で、こちらは寺沢氏から弾圧を受けていたキリシタンたちが一揆に加わって、大きな勢力となったのでした。

原城跡の石垣 Photo by Adobe Stock

「海の上を歩いた?」

一揆は島原・有馬村のキリシタンが、代官の林兵左衛門を殺害したことに端を発しました。島原藩は討伐軍を出すものの、逆に一揆勢に追われて島原城に籠城するはめになります。肥後天草でも天草四郎を司令官として一揆が勃発。富岡城にこもる唐津藩兵を攻め、落城寸前まで追い詰めます。天草四郎は海の上を歩いたとか、盲目の女の子の目を見えるようにしたという“奇跡”が語られ、カリスマ指導者としてかつぎあげました。

原城跡の天草四郎時貞像 Photo by Adobe Stock

この時点では、島原と天草の一揆は別々のものでしたが、天草の一揆軍は鎮圧軍が向かっていることを知り、有明海を渡って島原の一揆軍に合流することを選びました。両軍は廃城だった原城に籠城します。その数は女子どももあわせて約3万7000人といわれます。

鎮圧軍を指揮したのは板倉重昌でしたが、1万5000石の小藩の大名で、九州の諸大名は言うことを聞きません。戦の長期化を憂慮した幕府は、老中・松平信綱の派遣を決定します。これを聞き焦った板倉重昌は総攻撃を命じますが、多くの死傷者を出し、自身も突撃して戦死してしまいます。

死体の胃を調べて、兵糧が少ないことを知り…

元和元(1615)年、豊臣氏を滅ぼした徳川幕府にとって、島原の乱は絶対に押さえ込まなければならない一揆でした。だからこそ、老中・松平信綱の派遣なのです。彼は12万人もの討伐軍によって海と陸から原城を完全に包囲します。生け捕りにした天草四郎の母や姉妹には、投降するよう手紙を書かせたりしますが成功しません。

しかし信綱は焦らず、兵糧攻めで一揆軍を追い詰め、城外に出た一揆軍の兵士を討ち取り、死体の胃を見聞した結果、海藻しかなく兵糧が尽きかけていると知ります。またオランダに頼みオランダ船から艦砲射撃を行い、同じキリスト教を信じる一揆軍に動揺を与えることに成功します。

原城跡 Photo by Adobe Stock

内通者だけが生き残った

籠城して88日目、ついに幕府軍の総攻撃によって原城は落城。幕府軍と矢文で内通していた山田右衛門作(やまだえもさく)のみが生き残ったという、凄惨なものでした。

天草四郎も討ち取られますが、幕府側が四郎とわからず、捕らえられていた四郎の母にいくつもの首を見せ、ひとつの首を見て泣き崩れたことで四郎とわかったという話が伝わります。島原の乱以降、キリスト教の禁教を強化、信者たちは隠れキリシタンとして潜伏し、長いキリスト教受難の時代が始まります。

長崎県南島原市 Photo by Adobe Stock

【原城】(別名・日暮城)
明応5(1496)年、この地を治めた有馬貴純の築城とされる。三方を有明海に囲まれた天然の要害だった。有馬氏が転封になると、松倉重政が当地を治めたが、一国一城令により島原城が築城され、原城と原城からほど近い日野江城は廃城となった。松倉氏が治めた島原藩の領民と対岸で唐津城主の寺沢氏が治めた天草諸島の領民が圧政と重税、キリシタン迫害に耐えかねて起こした農民一揆が島原の乱で、3万7000人が原城に籠城したと伝えられている。長崎と天草地方のキリシタン関連遺産として2018(平成30)年に世界遺産に登録された。
住所:長崎県南島原市南有馬町
電話:0957ー65ー6333(南島原ひまわり観光協会)

【天草四郎】
あまくさ・しろう。1621~1638年。キリシタン大名で関ヶ原の戦いで敗れた小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として天草諸島の大矢野島に生まれる。本名は益田四郎時貞、洗礼名はジェロニモ。神童として人々の崇敬を集め、多くの奇跡を起こしたとされる。島原の乱が勃発すると総大将として農民一揆を指揮、廃城となっていた原城に3万7000人が88日間籠城するも落城。四郎も斬首された。

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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