第一次大戦の人的被害を遥かに超える死者を出したスペインかぜ インフルエンザの名称は、この病気が星の影響であると考えられていた1504年の大流行の際に、“インフルエンス(影響)”という言葉が使われたことに由来するという。 …
画像ギャラリーバブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第131回は、「流行性感冒について」。
発熱、吐き気、下痢で意識朦朧の状態
巷(ちまた)ではたちの悪いインフルエンザが猛威をふるっている。
私はバカなのでカゼはひかない。しかしその一方、免疫性がてんでなく、ほとんど無菌状態の肉体を所有しているものだから、「ちょっとカゼ気味」という程度で突然と血圧低下や呼吸不全を起こし、救急車のお世話になる。
本稿でもたびたびネタに使用している「霍乱(かくらん)」というやつである。
この「霍乱」も過去3年の間に3度も経験すれば、いかな私とて多少は気をつけるようになる。つまり、「蓄積疲労+寝不足+カゼ気味=救急車」という「霍乱の法則」に遅ればせながら気付いたのであった。
作家の敵はてめえ一人である。すなわち、てめえの精神と肉体さえきちんと管理していれば百戦しても殆(あや)うからんのである。何ともバカバカしいくらいわかりやすい性格なのであるが、早い話が正月以来の過労と数日間の寝不足の上に、ちょっとカゼ気味かなと感じた私は、ただいま救急車に乗らぬための万全の配慮を整えて、自宅のベッドの上でこの原稿を書いている。
一昨日は過密スケジュールであった。午(ひる)すぎから市役所での講演があり、6時からは新聞社の書評委員会に出席し、午後8時から銀座のホテルでテレビのニュース番組の録画どりがあった。
どこかで霍乱を起こしてしまえば、まるで芸術品のように精巧に作られたスケジュールはバラバラに壊れてしまうのである。で、まず出発前にカゼ薬、胃腸薬、栄養剤、ビタミンC等を摂取し、異動に際してはすべて車、食物はいっさい口にせず水分だけを十分に補給する、という戦法をとった。
講演会の弁当にも、書評委員会で供された夕食にもほとんど手を付けず、テレビの録画どりに際しても打ち合わせはソファに寝転んだまま、カメラを回すときだけ起き上がった。
つまり、その時刻にはすでに相当の危険を感じていたのである。収録後すみやかに帰宅し、昨日は朝一番で医者に行き、安静のまま現在に至る。というわけだ。
ところで、寝ている場合ではないのである。向こう3日間で50枚の短篇小説1本とエッセイを3本、どうしても書かねばならない。さらに火急を要する仕事としては、書評委員としての務めで、読破しなければならぬ書物が10冊もたまっている。
医師の診断によれば、典型的なインフルエンザということで、なるほど薬を飲んで安静にしているにもかかわらず、次第に熱が上がり、吐き気が続き、下痢は猖獗(しょうけつ)をきわめている。
当然、仕事など何もする気になれず、またできるはずもないのであるが、ナゼか書評委員会から持ち帰った書物の中に『インフルエンザ』という題名の1冊があった。これはいささか興味深い。しかも高熱にうかされ、意識も朦朧(もうろう)たる状態でこれを読むことは、たとえていうなら「墓場でホラー」「押し入れで乱歩」「温泉で『雪国』」の臨場感を堪能できる。
第一次大戦の人的被害を遥かに超える死者を出したスペインかぜ
インフルエンザの名称は、この病気が星の影響であると考えられていた1504年の大流行の際に、“インフルエンス(影響)”という言葉が使われたことに由来するという。
フムフム。なかなか面白い。
要するに広義でいうところの風邪の一種、インフルエンザ・ウィルスによるきわめて伝染性の強い風邪、というのがその定義であるらしい。ちなみにinfluenzaは英語で、欧米では俗語としてfluと呼ぶらしい。
古代ギリシャの医学の祖、ピポクラテスはその流行を早くも記述しており、わが国でも文献における最古の記録は貞観(じょうがん)4年(862年)であるという。大正初期には「流行性感冒」という名称も使われているが、実はこの「感冒」という言葉はオランダ語の「カンパウ(風邪)」で、れっきとした外来語だそうだ。そういえば、私が子供の時分には「インフルエンザ」とは呼ばず、もっぱら「流感」と言っていたような気がする。
と、このあたりまで読み進んだところで、私は氷嚢を頭に載せたまま書庫に潜った。悲しき職業上の性である。
明治45年刊『日本疫病史』によると、流行性感冒は「明治二十三年の春、我が邦にインフルエンツァの大流行ありしとき、新に用ひられたる名称」とある。
明治23年の大流行というのは「お染かぜ」「電光感冒」と呼ばれたインフルエンザのことで、それ以前の大流行には、あたかも台風のように名前がつけられていた。
お駒かぜ(安永5年・1776)、お七かぜ(享和2年・1802)、琉球かぜ(天保3年・1832)、アメリカかぜ(安政元年・1854)――ううむ、昔の人は偉い。決して「香港H5型」なんて言わないのである。
さて、世界的に猛威をふるったインフルエンザといえば1918年の春から翌年にかけての「スペインかぜ」。
もともとは第一次大戦中の西部戦線で発生したのだが、各国の兵隊たちがウイルスとともに復員してしまったために世界的大流行をひき起こした。世界中のスペインかぜによる死亡者は1500万人から2500万人の間であったと推定されるので、何と第一次大戦の人的被害など比べものにならぬのである。
なにしろイギリスでは20万人が死亡し、アメリカでは当時の人口の0.5パーセントにあたる50万人が死に、イギリスの属領として兵士を動員させられた上に衛生環境が悪かったインドでは500万人が犠牲になったといわれる。我が国でもスペインかぜによる死亡者総数は1921年5月までの報告で38万8727人にものぼる。
そういえば武者小路実篤の『愛と死』のヒロインはスペインかぜにかかってポックリ死んだ。ついでに拙著『天切り松 闇がたり』の主人公・松蔵の姉も、吉原に売り飛ばされたあげく、スペインかぜでポックリ死んだ。
こうなると、たかがカゼ、などと言っている場合ではあるまい。当時の新聞には、連日こんな怖ろしい見出し躍ったそうだ。
「各火葬場は満員の姿、三日位火葬場に留置く」
「世界風邪で鉄道の欠勤七千五百人――輸送に不便で石炭車の運転減ず」
「電車で咳を避けよ――感冒の死者毎日二百人を超ゆ」
「停車場に死体堆積す――火葬場満員のため」
発熱もウイルスの増殖に対する防御機構です
スペインかぜ以来の世界的大流行は、1957年の「アジアかぜ」である。
これは中国南西部の貴州、雲南あたりで勃発したといわれ、上海、香港を経由して、またたくまに全アジアへと流行した。わが国でも5700人の死者を数え、当時6歳であった私も、おぼろげながらこの「流感」の大騒動を記憶している。
さらに1968年の「香港かぜ」、1977年の「ソ連かぜ」と、約10年の周期で正解的な大流行は続いた。
書物によれば、インフルエンザ・ウイルスは鼻や口から体内に入り、咽頭細胞や肺の細胞などに寄生する微生物なのだそうだ。こう言われると怖い。
しかも、私が治ってしまえば私の体内のウイルスは死滅するが、微生物として存続するために、どこか別の人、別の生物に感染を続けて行かねばならない。ものすごく怖い。
そしてさらに、感染をくり返すうちに少しずつ姿を変え、地球を一周して翌年の冬になると、また新種のインフルエンザになって同じ人間、つまり私の体内に戻ってくるというのである。まさにホラー・サスペンスの世界である。
熱がひどいので書物を閉じようとすると、またしても怖い記述が目に入った。
「発熱もウイルスの増殖に対する防御機構です。例えば、摂氏39度でのA型ウイルスの増殖は、摂氏37度での増殖の10分の1ぐらいに落ちます」
ううむ。体は戦っているのだ。
筆者病中につき、やむをえず剽窃(ひょうせつ)いたしました書物のタイトルは『インフルエンザ』(PHP新書)。発熱中の方はぜひご一読のほど。
(初出/週刊現代1998年2月21日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。