老舗商店などの店頭に、「宮内庁御用達(くないちょうごようたし)」、あるいは「宮内省御用達」という札が掲げられているのを見たことがある方もいるだろう。1891(明治24)年に内規として定められた”御用商人の証”とされる称標(しょうひょう)である「御用達」。実のところ、1954(昭和29)年にこの制度は廃止されており、当の宮内庁は黙認しているというのが実情である。では過去に、どのような業種、業態の商人に、その称標使用が認められてきたのか。その実情に迫ってみたい。
画像ギャラリー老舗商店などの店頭に、「宮内庁御用達(くないちょうごようたし)」、あるいは「宮内省御用達」という札が掲げられているのを見たことがある方もいるだろう。1891(明治24)年に内規として定められた”御用商人の証”とされる称標(しょうひょう)である「御用達」。実のところ、1954(昭和29)年にこの制度は廃止されており、当の宮内庁は黙認しているというのが実情である。では過去に、どのような業種、業態の商人に、その称標使用が認められてきたのか。その実情に迫ってみたい。
※トップ画像は、「宮内庁御用達」の札の一例
始まりは明治時代
明治時代以前にも皇室に出入りする「禁裏御用(きんりごよう)」と呼ばれた業者は存在した。明治天皇の東京奠都(とうきょうてんと、都として定めること)とともに、京都から東京へ移転した業者もある。いわゆる御用達が制度化したのは、1891(明治24)年の内規「宮内省御用達称標出願人取扱順序」からで、それまでは許可制度そのものがなかった。
この出願には、厳格な条件が課せられ、「宮内省所要の物品の製造人または調達人であること」「社会上および業務上に信用のある者」「製造または調達する物品は品質優良であること」や、外国の商人については、「同一物品を2回以上の買受があること」などが規定されていた。
称標使用の条件には、「本支店の所在地」「製造販売の品名」「製造の年月、販路」「資本の総額」「品質の優良なることを証するに足りる事項」「宮内省に調達したる品名及び年月」の提出が必須とされ、その許可は宮内省内の部局長の合議を経て、宮内大臣から与えられるものだった。また、称標は「宮内省御用達」「宮内省御買上」に限られ、“御料御用”、“御料品”、“御用品具”といった天皇との直接取引を想起させる用語の使用は禁止されていた。
許可第一号は
1928(昭和3)年に行われた称標使用を許可された”商人調(しょうにんしらべ)”によると、その数は59者で、うち外国の商人は13者を数えた。最初に許可された商人は、1892(明治25)年1月19日の「魚類商(個人)」で、会社としては、1899(明治32)年12月の「菓子商(風月堂)」だった。会社の数は34者であり、そのなかには、三越呉服店や高島屋呉服店、大日本麦酒、麒麟麦酒、精養軒、東洋軒、明治屋、銚子醤油(ヒゲタ醬油)、日本楽器製造(ヤマハ)、ロールスロイスなどが名を連ねていた。
個人商は25人で、のちの川嶋織物(川嶋織物セルコン)となる川嶋甚兵衛氏や、御木本幸吉氏(ミキモト真珠)、濱口儀兵衛氏(ヤマサ醤油)、吉野葛を扱う黒川三郎氏(奈良黒川本家)らの名があった。
宣伝に使用しない
1891(明治24)年に許可制となる以前は、無断で「御用達」の使用が相次いだこともあったそうだ。1935(昭和10)年には、さらに厳しい許可制とし、商売に「宮内庁御用達」を使用しないように求めた。この宣伝使用の禁止は、現代の宮内庁における物品購入においても同じで、「物品の製造・納入の一切の事実を宣伝広告等に利用してはならない」と契約書に記されている。
そもそも、御用達制度は1954(昭和29)年に廃止された。しかし、廃止後も「御用達」と表記しているところもあり、「矛盾していないか?」と1975(昭和50)年に国会で議論になったことがあった。当時の宮内庁長官は、「いろいろなものについて宮内庁に納めるという意味で使っているものはございます」とし、「不当にそれを利用することがなければ、当方としてはそれがはっきりしない以上はいまのところ黙認のような形でございます(答弁速記録より)」と答弁した。そのためなのか、今でも「御用達」を掲げる会社や商人は存在している。
文・写真/工藤直通
くどう・なおみち。日本地方新聞協会皇室担当写真記者。1970年、東京都生まれ。10歳から始めた鉄道写真をきっかけに、中学生の頃より特別列車(お召列車)の撮影を通じて皇室に関心をもつようになる。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物を通じた皇室取材を重ねる。著書に「天皇陛下と皇族方と乗り物と」(講談社ビーシー/講談社)、「天皇陛下と鉄道」(交通新聞社)など。