松平定知の「一城一話55の物語」

「官兵衛だ」秀吉は次の天下人をこう言った 智謀の人・黒田孝高が差し出した姫路城

姫路城(「Webサイト 日本の城写真集」より)

「世におそろしきものは徳川と黒田なり」 秀吉の軍師として活躍した孝高ですが、秀吉はその知謀がいつの日か自分に向けられるのでは?と思うようになっていきます。 「儂に代わって天下を治めるのは誰だと思うか」の問いに家臣たちは、…

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『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。今回は、黒田孝高と姫路城です。

“白鷺城”は世界遺産

姫路城はいわずと知れた世界遺産で、日本で最も美しい城のひとつでしょう。秀吉がまだ羽柴姓だった頃、三重の天守を築いたとされますが、白鷺城(はくろじょう)と呼ばれる現在のような姿に整備したのは、徳川家康の娘婿でもあった池田輝政です。

美しい城を築いたのは池田輝政ですが、姫路の地を歴史の舞台に押し上げたのは、官兵衛とも呼ばれる黒田孝高(よしたか・官兵衛)です。

市内の大通りから見た姫路城

秀吉の天下取りの足がかり「中国大返し」

秀吉が天下取りの足がかりを得た「中国大返し」。その策を秀吉に進言し、戦略を練ったのも黒田孝高でした。

天正10(1582)年、織田軍の中国方面司令官として、羽柴秀吉は備中高松城を水攻めにし、援軍に来た毛利勢2万と対峙していました。

中国大返しとは、その時に起こった本能寺の変を受けて、京都山崎まで200kmの道のりをわずか10日間ほど、実質5日間で駆け抜けた戦国屈指の強行軍のことです。あれがあったから秀吉は天下人になれたのです。

姫路城の「ロの渡櫓」

「目薬屋」と呼ばれた背景

黒田孝高は播磨の国、姫路に生まれました。祖父は目薬や馬の薬を調合し生計を立てたといい、後に九州筑前で大名になった際、名門の島津家から「目薬屋」と呼ばれるのは、このことによります。

孝高は播磨の国の武将で姫路城主の小寺政職(まさもと)に仕え、父・職隆(もとたか)の跡を継ぐかたちで家老職に任命されます。24歳の時でした。

「織田につくべき」

その後、播磨の国は織田、毛利の2大勢力が争い、小寺氏はどちらにつくか決めかねていました。その際に織田につくべきと進言したのが孝高でした。天正3(1575)年長篠の合戦で武田勝頼を倒した信長の才能を評価したからにほかなりません。同じ年、孝高は、秀吉の取りなしのもと岐阜城に出向いて、信長に謁見、服属します。

そして、信長の対毛利中国侵攻の際、孝高は秀吉軍に属し、息子である松寿丸(後の長政)を人質に差し出します。臣下の礼をとる孝高に、秀吉は「その方は、わが弟、小十郎(秀長)同然に心安く思っている」という手紙を送っています。

さらに秀吉が播磨に到着すると、居城である姫路城を差し出し、自分は二の丸に移ります。秀吉が姫路城を拠点にするのはこの時からです。

姫路城

秀吉軍に舞い込んだ密使で信長の死を知る

天正10(1582)年6月2日明け方、本能寺の変が勃発。当時羽柴秀吉は、備中高松城で毛利軍と対峙していましたが、翌3日、光秀が毛利方に送った密使がたまたま秀吉軍に迷い込んだことから、織田信長の死を知ることになります。

悲嘆にくれる秀吉に、「さあ、天下をお取りくださいませ」とささやいたのが孝高です。冷静な孝高は、「信長の死を、信長の家臣たちはまだ誰も知らないであろう」「京にいち早く戻り、明智光秀を討ち取れば、有力な後継者になれるであろう」という2つのことを直感的に感じ取り、秀吉に進言したのが、この言葉です。

この孝高のひと言がなければ、秀吉の天下取りはなかったか、もっと時間がかかったと思います。

本能寺の変のわずか3日後、姫路城へ出発

秀吉はかねて毛利方から出ていた和議を、備中高松城主・清水宗治に腹を切らせることなどでまとめ、本能寺の変のわずか3日後(6月6日)には姫路城へ出発。翌日は1日中歩き、2日で約80kmも移動して、姫路まで1日半で到着します。

秀吉は姫路城で風呂に入りながら、ありったけの金子(きんす)銀子(ぎんす)を集め武将に与え、米を足軽たちに分配し、いくらかを戦いのために持参します。秀吉の対光秀の戦にかける意気込みが伝わってくるようです。

姫路城の甲冑

山崎で、光秀軍と戦う

8日は一日休んで9日朝、姫路城を出発。約80km移動して、11日には尼崎城に到着します。さらに12日は富田林に到着、池田恒興(姫路城を整備した池田輝政の父)や信長の重臣・丹羽長秀、高山右近などが合流します。

そして6月13日。いよいよ摂津と山城の国境、山崎の地で、明智光秀軍1万6000と相見えます。戦いは一日であっけなく終わり、光秀は居城である近江坂本城に落ち延びる途中、農民に竹槍で刺され、後に自刃。享年55。その後、秀吉の天下取りは加速していきます。

「世におそろしきものは徳川と黒田なり」

秀吉の軍師として活躍した孝高ですが、秀吉はその知謀がいつの日か自分に向けられるのでは?と思うようになっていきます。

「儂に代わって天下を治めるのは誰だと思うか」の問いに家臣たちは、前田利家や徳川家康の名を挙げましたが、秀吉は「官兵衛だ」と言ったという話が伝わっています。これを伝え聞いた孝高は、「このままでは殺される!」と思い、秀吉のもとを去り、家督を息子の長政に譲ります。この身の処し方ひとつとっても、彼の鋭さがわかります。

しかし、天下への意識は秀吉の死後頭をもたげます。関ヶ原の合戦のあと、勝った家康と日本一をかけて「優勝決定戦」をしようと試み、準備を進めますが、関ヶ原の合戦が1日で終わったことで、断念したという話も残っています。

「世におそろしきものは徳川と黒田なり。されども徳川は温和の人なり、黒田はなんとも心をゆるしがたきものなり」と秀吉に言わしめた黒田孝高は、家康が徳川幕府を開いた翌年、亡くなります。享年59。

姫路城から見た市内

【姫路城】(別名・白鷺城、はくろじょう、しらさぎじょう)
1580(天正8)年、羽柴秀吉の中国攻略にあわせ、黒田孝高が姫路城を献上、秀吉が三層の天守閣を築き、翌年完成。おね(北政所)の兄、木下家定が城主を務めた後、関ヶ原の戦いが起こり、中立を守った家定は出家した。城主となった池田輝政が大改築をはかり、1618(元和4)年、本多忠政時代にほぼ完成する。昭和、平成と大修理を受け、現在の偉容を誇る。1993(平成5)年、ユネスコの世界文化遺産に登録。
入城料金:大人1000円、小人300円(小学生・中学生・高校生)
開城時間:9~17時(閉門は16時)
休城日:12月29、30日
住所:兵庫県姫路市本町68番地
電話:079-285-1146(姫路城管理事務所)

夜明けの姫路城

【黒田孝高】
くろだ・よしたか。1546~1604年。通称は官兵衛、出家後は如水と称す。秀吉の側近、軍師として仕え、特に調略に長けていた。同じく秀吉の参謀だった竹中半兵衛とともに両兵衛と称された。ドン・シメオンの名を持つキリシタン大名でもあった。

松平定知さん

松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。京都芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。

※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載

※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」

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