『歴史を拓いた明治のドレス』の著者で、ジャーナリスト・吉原康和氏が、明治の皇后のドレスと下賜先の尼門跡の関係を追った。日本の洋装は、皇室がリードしたのだった。
画像ギャラリー『歴史を拓いた明治のドレス』の著者で、ジャーナリスト・吉原康和氏が、明治の皇后のドレスと下賜先の尼門跡(あまもんぜき)の関係を追った。日本の洋装は、皇室がリードしたのだった。
※尼門跡寺院とは、皇女(こうじょ)や公家の息女(そくじょ)が入寺したお寺
美子皇后自らドレスを着用されて近代化に貢献
明治44(1911)年1月、明治天皇の后(きさき)、美子(はるこ)皇后(のちの昭憲皇太后)が滞在する沼津御用邸を、20代の尼僧が訪ねている。皇族や公家出身の女性が代々門跡(住職)を務めた京都の「大聖寺(だいしょうじ)」第26代門跡の石野慈栄(いわの・じえい)尼で、皇后はその2年前、「マント・ド・クール」(大礼服)と呼ばれる最高級の宮廷ドレスを大聖寺門跡に下賜(かし)していた。
皇后自らが率先して進めた洋装化のシンボルでもある宮廷ドレスを、尼門跡に賜ったのはなぜか。ドレスと寺院。一見無縁とも思える両者をつなぐ背景には、明治維新で環境が激変しても変わらぬ皇室と尼門跡の絆(きずな)の物語があった。
大聖寺は「御寺御所(おてらごしょ)」と呼ばれ、北朝第4代の後光厳(ごこうごん)天皇の後見役を務めた無相定円尼(日野宣子)が創建した臨済宗の寺院。皇族や公家出身の女性が門跡を務めた尼門跡寺院の一つで、江戸時代後期までの門跡は天皇の娘である皇女だった。
慈栄尼は、明治天皇の幼少期の遊び相手だった公家の岩野基将(もともち)の娘で、わずか6歳で大聖寺に入り、門跡になった。
明治天皇と美子皇后と面会したのは明治28(1895)年で、9歳の時だったという。慈栄尼は美子皇后(一条家出身)と同じ公家出身で幼くして母親を亡くしたということもあり、「慈栄尼さまは、昭憲(皇太后)さまに大変可愛がられたとうかがっています」と、大聖寺の関係者は語っている。
その大聖寺に皇后が着用された宮廷ドレスが下賜されたのは、明治42(1909)年7月とされる。大聖寺の日記に記されていた。静養と避寒のため、美子皇后が静岡県の沼津御用邸に滞在するようになってから3年後の時期で、皇后は還暦(60歳)を過ぎていた。
この年、皇后着用の宮廷ドレスを賜ったのは、大聖寺門跡だけではなかった。同じく尼門跡寺院の光照院門跡(京都市上京区)や曇華院(どんげい)門跡(京都市右京区)などにも「ローブモンタント」(通常礼服)と呼ばれるドレスが下賜されていた。「すでにお年を召されていた晩年の昭憲皇太后さまが着用した思い出の品々であるドレスを皇室にゆかりのある寺院に下賜されたのではないか」と寺院関係者は推察する。
一般に天皇や皇后が亡くなると、遺品の一部は親王や内親王などの皇族に配分されるが、皇后が身に着けていた服や靴、日常品などを生前に、皇室とゆかりの深い神社仏閣の関係者や側近の女官たちに下賜する慣習は昔からあった。たとえば、天皇の娘である皇女が出家して寺の住職となった尼門跡たちには、江戸時代以前には宝飾品や人形、着物などが贈られていたが、明治以降になると、時代を反映して宮廷ドレスなどを尼門跡に下賜されるようになった。
皇后が大聖寺に下賜した大礼服とはどのようなドレスなのか。
礼服は4種類あった
皇族や大臣、勅任官(ちょくにんかん)以上の婦人が着る礼服は、明治19(1886)年6月の宮内大臣通達により、大礼服(マント・ド・クール)、中礼服(ローブ・デコルテ)、小礼服(ローブ・ミー・デコルテ)、通常礼服(ローブ・モンタント)の4種類に決められた。大礼服は、フランスのルイ王朝の時代からある最も格式の高い礼服で、明治時代の日本では、新年拝賀のほか、皇族の婚儀の際などに着用されることになっていた。
一方、尼門跡寺院などに下賜されたドレスは、どのように活用されていたのか。
大聖寺では、大礼服のトレーン(引き裾、長さ3・4m、幅1・7m)を2枚に裁断し、仏壇を飾る四方形の敷物である「打敷」(うちしき)にした。
「従(より)皇后宮 明治四十四年孟夏(もうか)御寄附弐枚之内 岳松山大聖寺什(じゅう)」。
裁断された1枚のトレーンの裏地の墨書には、このように記載されていた。
明治44年1月、慈栄尼が美子皇后を訪ねた目的は何だったのか。
前年の明治43年1月19日、皇后は大聖寺に堂宇修繕費として金1500円を下賜していた。また、明治44年9月には、江戸時代初期の御水尾(ごみずのお)天皇の第11皇女で、第19代大聖寺門跡の元昌(げんしょう)尼の没後250年遠忌(おんき)の法要が予定されていた。
慈栄尼は、皇后が沼津御用邸に滞在するようになってから、あいさつ回りのため毎年のように沼津御用邸を来訪していた。当然、前年の明治43年に皇后から下賜された大聖寺の堂宇修繕費のお礼を直接伝えたであろう。そして、この年の秋に控えた元昌尼の没後250年忌法要についても相談されたとみられる。
皇后と対面後の夏には、大礼服のトレーンを裁断して仏前を飾る打敷に仕立て直しされていたからだ。このことを慈栄尼は皇后に事前に報告し、了解を取り付けていたと考えられる。
大礼服が大聖寺に下賜された背景には、天皇の娘である皇女が尼門跡になる明治以前の長い伝統があるが、興味深いのは、皇族の出家禁止と神仏分離政策の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で皇室と寺院を巡る環境が激変する明治以降も変わらぬ皇室と尼門跡寺院との強い絆だ。
大聖寺の門跡も皇女から公家出身の女性が務めるようになり、他の寺院同様に経済的に苦境に陥り、公家出身の政府高官、岩倉具視(ともみ)に支援を仰ぐこともあった。さらに、明治2年の東京遷都で、御所は京都から東京に移り、尼門跡たちと御所との関係は、遠く引き離されたが、尼門跡たちは折々の面会や季節のあいさつなど、皇室とのつながりを大切にしてきた。
すでに着ることのなくなった皇后のドレスを賜った尼門跡が仏前を飾る打敷に仕立て直しすることは、決して珍しいことではなかった。実際に大聖寺門跡同様に美子皇后からドレスを賜った光照院などの尼門跡もドレスを打敷に仕立て直していた。
明治44年の秋、元昌尼の没後250年忌法要は予定通り、大聖寺で厳かに行われた。沼津御用邸から派遣された女官たちが見守る中、会場の祭壇には明治の皇后が愛用した色鮮やかな大礼服のトレーンが飾られていたのであろう。
吉原康和(よしはら・やすかず)
ジャーナリスト、元東京新聞編集委員。1957年、茨城県生まれ。立命館大学卒。中日新聞社(東京新聞)に入社し、東京社会部で、警視庁、警察庁、宮内庁などを担当。主に事件報道や皇室取材などに携わり、特別報道部(特報部)デスク、水戸、横浜両支局長、写真部長を歴任した。2015年から22年まで編集委員を務め、宮内庁担当は、平成から令和の代替わりの期間を中心に通算8年。主な著書に『歴史を拓いた明治のドレス』(GB)、『令和の代替わりー変わる皇室、変わらぬ伝統』(山川出版)、『靖国神社と幕末維新の祭神たちー明治国家の英霊創出―』(吉川弘文館)など多数。