おとなの週末的クルマ考

AE86の再来ともてはやされたのが不幸の始まり アルテッツァは悲運のアスリート

1998年デビューのアルテッツァはAE86の再来と話題になりました

アルテッツァはAE86の再来と騒がれ話題になりましたが、その反動で販売面でかなりの苦戦を強いられました。その理由は何だったのでしょうか?

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今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第36回目に取り上げるのは、トヨタのコンパクトFRセダンのアルテッツァだ。

セダンが売れない!!

バブル崩壊後日本のクルマ界は激変し、RVブームが到来。このRV人気の兆候はバブル期にもあったのだが、1991年デビューの2代目三菱パジェロの登場が決定打となり、その後RV人気が一気に加速。クロカンブームに続き、ミニバンブーム、ステーションワゴンブームという感じで、日本車はRVが市民権を得ていた。

それに対し日本のクルマの王道だったセダンが販売を大きく落とすようになった。2024年現在まで続いているセダン受難の始まりだ。セダンを最も多くラインナップし、人気を得ていたトヨタの影響は最も大きく、日本国内のシェアも1995年はかろうじて40%台をキープするも、1996年には39.7%と40%を切り、1998年には39.4%となるなどトヨタをしても苦戦を強いられていた。

コンパクトFRスポーツセダンとして1998年にデビューしたアルテッツァ

セダンイノベーション

トヨタはユーザーのニーズに合わせてRVのラインナップを充実させていったが、その一方でセダンの復権を狙っていた。1996年にはセダンの魅力を大々的にアピールし”セダンイノベーション”というスローガンを掲げてマークII/チェイサー/クレスタがフルモデルチェンジ。

9代目マークIIがセダンイノベーションの先陣を切ってデビュー

続いて2代目アリストをデビューさせる。クラウンシリーズから独立したアリストは、個性的なデザイン、圧倒的な動力性能により人気となったが、セダン復権の起爆剤とはならず。しかしトヨタのセダンイノベーションはさらに続き、ブランニューセダンのプログレをデビューさせた。大きく、豪華が当たり前だった日本車に”小さな高級車”をアピールしたプログレは一石を投じ、大きな可能性を感じさせたが、個人的な見解ながら、デザインが個性的過ぎた。それはトヨタの狙いだったのかもしれないが、プログレがもう少し、悪の少ない万人受けするデザインで登場していれば、現在も存続していたかもしれない。結果論だが、そう考えるとちょっともったいなかった。

プログレのデザインがもっと一般受けするものだったら……

デビューの2年前からスクープ

そんなセダン受難時代の1998年に登場したのがアルテッツァだ。ほぼ5ナンバーサイズのFRセダンへの期待感は激高だった。

自動車雑誌『ベストカー』は新型車のスクープを売りとしているが、アルテッツァのスクープ情報はデビューの2年前くらいから誌面を賑わせていた。実際にアルテッツァのスクープを掲載した号は売り上げが伸びる、つまりユーザーが登場を心待ちにしていたのだ。

デビューまでにエンジンラインナップ、トランスミッション、エクステリア&インテリアデザインの詳細、車名などが段階的に明らかになり、『ベストカー』の編集部員だった筆者も、当時アルテッツァの情報に一喜一憂していたのが懐かしい。当然読者からの問い合わせも多かった。

アルテッツァのスクープ情報が掲載されると『ベストカー』がかなり売れた!!

ほぼ5ナンバーサイズで登場

アルテッツァは1998年10月30日に正式発表され、発表と同時に販売を開始。ボディサイズは全長4400×全幅1720×全高1410mmで、全幅は1700mmを超えるため3ナンバー登録となるが、ほぼ5ナンバーと言っていいコンパクトなセダン。そしてアルテッツァで最も重要なのは、駆動方式がFRということ。コンパクトなFRということがアルテッツァの存在意義なのだ。

エンジンは2L、直4DOHC(210ps/22.0kgm)と2L、直6DOHC(160ps/20.4kgm)の2種類を設定。スペックからもわかるとおり、スポーツモデルは直4搭載モデルだ。直4搭載モデルがRS200、直6搭載モデルがAS200というグレードとなっていた。クルマ界では数が多いほうが偉いのが一般的。4気筒より6気筒が上級となるなか、アルテッツァは4気筒のほうが上に位置していた点では珍しい。この理由については後述する。トランスミッションはRS200が6MTと5ATに対しAS200は4ATのみと差別化。

価格は207万~250万円と、当時でも買い得感の非常に高い設定となっていた。

日本で扱いやすいジャストサイズのセダンとしてもっと売れてよかった

セダンながらクーペフォルムを採用

トヨタはセダンイノベーションの一環として、2代目アリストの登場を機にFRプラットフォームを刷新。そのプラットフォームはプログレ、アルテッツァにも使われている。ただし、アリスト、プログレのホイールベースが2780mmなのに対しよりコンパクトなアルテッツァは2670㎜に短縮されている。

前後のオーバーハングを切り詰めてスポーティさを好演出

アルテッツァのエクステリアデザインは直6エンジンを搭載していることもありロングノーズ&ショートデッキのクーペフォルムを採用している点が特徴だ。また、前後のオーバーハングを切り詰めたことでスポーティ感を好演出。フロントマスクは今のクルマと比べると若干おとなしい感じがする比較的オーソドックスなもの。当時からもう少し精悍なフロントマスクだったら、という願望は聞かれた。一方丸灯を埋め込んだクリアテールは個性的なデザインで、ひと目でアルテッツァとわかって好評だった。

丸灯を埋め込んだクリアテールはアルテッツァのアイデンティティ

『頭文字D』の影響でAE86が大人気

アルテッツァと言えば、決まり文句がある。『AE86の再来』だ。知らない人のために説明をしておくと、AE86とは1983~1987年に販売された4代目カローラレビン/スプリンタートレノの型式で、手頃なサイズのライトウェイトFRスポーツとして若者を中心に根強い人気を誇る、今となっては伝説のトヨタ車だ。

AE86が販売終了後10年以上経過して話題になっていたのは、しげの秀一先生作の『頭文字D』(講談社・2024年10月現在シリーズ累計発行部数5600万部超)の主人公、藤原拓海の愛車がAE86トレノだったことの影響にほかならない。クルママンガの金字塔『頭文字D』の大ヒットによりAE86の中古相場が爆上がりするなど社会現象にまでなっていたほど。

絶版後10年以上経過して中古車が大人気となったAE86トレノ

アルテッツァはセダンだから2ドアクーペ&3ドアハッチバック(藤原拓海のAE86は3ドアハッチバック)のAE86とは根本的に違うが、トヨタが発売するコンパクトFRということで、『AE86の再来』と色めき立ったのだ。まぁ正しくは『ベストカー』をはじめとするクルマ雑誌が勝手に煽って読者を巻き込んだのだ。

トヨタは2012年にスバルと共同開発でコンパクトFRスポーツを登場させ、車名を86としてAE86へのオマージュをアピールしたのとは違い、トヨタサイドでは『AE86の再来』とはいっさい言っていない。

『AE86の再来』というフレーズがアルテッツァの命運を大きく左右することになってしまった。実車とイメージが乖離しすぎていたのだ。ではどんな乖離があったのか、具体的に見ていく。

トヨタが発売するFRスポーツセダンということでAE86と関連付けるのは当然の流れ

初志貫徹できず

トヨタは、「自分たち(開発陣)が欲しくなるようなコンパクトかつスポーティなFRセダン」というコンセプトでアルテッツァの開発に着手。コンセプトキーワードは『インテリジェント・アスリート』で絶対的な速さではなく、キビキビと走り、操る楽しさが感じられるクルマを目指したという。シンプルに走りを追求したベーシックFRというキャラを目指したのだが……。

しかし、事は簡単には運ばない。アルテッツァはレクサスの初代ISとして販売されることになっていたから、BMW3シリーズ、メルセデスベンツCクラスに対抗する必要があり、プレミアム性を加味することも求められていた。

ISは直6エンジン搭載モデルしかなく、アルテッツァ用に直4が特別に用意されたスポーツモデルのため、直6よりも直4のほうが高額になっていた。

アルテッツァは、ISとの絡みもあり初志貫徹できず。どちらか一方に突き抜けることなく、スポーツセダンとプレミアムセダンのいいとこ取りをしたつもりが、最終的には中途半端なクルマになってしまった感は否めない。

初代レクサスISは欧州、北米で評価され人気となった

コンパクトセダンとしては重すぎた

前述のとおり、レクサスISはアルテッツァのデビューの翌年1999年から欧州での販売を開始。つまり欧州基準でのクルマ作りが必須となり、欧州の衝突安全基準に適合するように作られたため、ボディサイズのわりに重かった。

ハイパワーモデルのRS200でさえ210ps。そのパワーに1300~1400kgのボディは重すぎで、アルテッツァの弱点になっていた。クルマは速さではない、と言いながらもユーザーは「アルテッツァは遅い」と評判となった。これはサーキットを走ってどうこうという問題ではなく、街乗りでのダルさが指摘されていた。

AE86が軽量でヒラヒラするようなFRの走りが人気となっていたため、重いという時点で根本的にAE86とは違っていた。結果的に「AE86の再来を期待したのにガッカリ」となってしまったのだ。期待が大きかったことによる悲劇と言えるだろう。

サーキットでは速かったが、街中でのダルさが問題だった

FRのハンドリングは素晴らしかった

アルテッツァはアリスト、プログレよりも110mmホイールベースを短縮して、かつ重量配分を最適化してスポーティはハンドリングを実現している

重いことがアルテッツァのネガになっているのは確かだが、裏を返せば、通常の日本仕様では省かれていたような補強などもふんだんに入っているため、当時の日本車ではボディ剛性はかなり高かった。

前述のとおりアルテッツァはアリスト、プログレとプラットフォームを共用しているわけだが、ホイールベース内に重量物を集中させ、前後のオーバーハングを極端なまでに切り詰めている。走行性能に直結する重量配分に気を配り、ヨー慣性モーメントを低減することでコーナリング性能を大きく向上させていた点は特筆。

アルテッツァは強固なボディ、しっかりとしたシャシーによりFRのハンドリングを楽しむことができたのは、クルマのプロ、ユーザーからも評価が高かった。

高剛性ボディ、足回りもしっかりチューニングされハンドリング性能は高かった

高回転型のエンジンは下がスカスカ

アルテッツァの売りは2Lで210psをマークする3S-GEエンジンだったが、NAエンジンの宿命でハイパワー化のためにはエンジンを高回転型する必要がある。RS200のエンジンは、22.0kgmの最大トルクを6400rpmという高回転域でマーク。今では低回転から高回転までフラットなトルク特製のエンジンが主流だが、当時は上は回るけど下はスカスカというスポーツエンジンも少なくなく、アルテッツァの3S-GEエンジンも低中速トルクが細かった。その影響で発進加速がダル。当時は信号待ちから発信する際に、軽自動車にも抜かれると言われていた。

210ps/22.0kgmは当時2LのNA最強スペックだったが、低中速トルクが細すぎたのが残念

運転が下手になったように感じる

アルテッツァで新開発された6MTもスポーツ走行で使う頻度の高い2~3速のギア比が離れていたので巧みにシフトチェンジしないとパワーバンドを外してしまい、加速が鈍った。具体的には1→2→3の回転落ちが大きいわりに、3→4→5→6がクロスレシオということで街中での低速走行時にはかなりギクシャクしていた。実際に筆者もアルテッツァの長期貸与車を仕事で何度も運転していたが、アルテッツァを運転するたびに「俺ってこんなに運転が下手だったっけ?」と悲しくなったものだ。これは単に下手なのだが、アルテッツァだとヒール&トゥが上手くいかなかった。

待望の新開発6MTは1-2-3速のギア比が離れていて扱いづらかった!!

このギア比になったのは騒音規制に対応するためだったようだがかなり不評。TRDが変速比を適正化したものを販売していたが、トヨタも問題視していたようでマイチェンでファイナルのギア比が変更された。

後期型でファイナルギアを4.3に変更して対応。低速域の吹け上がりはかなりよくなったが、高速道路100km/h巡航時に6速で3000rpmを超えてしまうので、「マイチェン後のアルテッツァはうるさい」という人も。ユーザーってホントに難しい!!

インテリアはスポーティ&シックにまとめられていた

ユーザー層が激変

アルテッツァは1998~1995年の7年間で約11万台を販売。年平均約1万5000台ということで決して大失敗したわけではなかった。2001年にはハッチバックともシューティングブレークとも言えるアルテッツァジータを追加。ヒットはしなかったが、個性を主張。

ワゴンタイプのアルテッツァジータは一部で熱狂的なファンが存在した

デビュー当初は4気筒のRS200の人気が高かった。デビュー後2週間のデータがトヨタから発表されていたが、1万200台を受注し、最も人気だったのがトップグレードのRS200の6MT、そして購入者は70%以上が30代以下という理想的なものだったが、徐々に変化し、最終的には6気筒のAS200のほうが売れ筋となった。購入者の年齢も40代以上が大半を占めるようになった。

6気筒は低速トルクがあるし、音振でもハイクォリティ。直6エンジンのフィーリングも上質で好評。そして4気筒はハイオク仕様、6気筒レギュラー仕様で、経済性にも優れていた点もあるだろう。

実際にデビューから時間が経過すると、購入年齢層は50代以上がメインとなった。これはアルテッツァがFRスポーツセダンとしての魅力を失ったことを意味しているように思えてならない。

クロノグラフをモチーフとしたメーターパネルは斬新だった

86の礎を築いた

「AE86の再来」というイメージが先行したばかりに、ブランニューFRスポーツセダンとしての評価が必要以上に低くなってしまった感があるアルテッツァ。トヨタはワンメイクレースを始めたり、アフターパーツメーカーと連携したりと必死に模索していた。

今やクルマ好きを手厚くサポートする自動車メーカーとしての地位を確立しているトヨタだが、このアルテッツァがその礎となっているのは間違いない。

アルテッツァでは中途半端に終わってしまったが、2012年登場の86で花開くことになる。アルテッツァはレクサスISに一本化され2005年に一代限りで消滅してしまったが、トヨタにとっては非常に意味のあるクルマだったと言えるだろう。

AE86をオマージュした86もアルテッツァがあったから存在する!?

【トヨタアルテッツァRS200主要諸元】
全長4400×全幅1720×全高1410mm
ホイールベース:2670mm
車両重量:1340kg
エンジン:1998cc、直4DOHC
最高出力:210ps/7600rpm
最大トルク:22.0kgm/6400rpm
価格:240万円(6MT)

デビューから収支一番人気だったのはシルバーのボディカラー

【豆知識】
AE86は1983~1987年まで販売されたモデルで、レビン/トレノとしては4代目となる。レビンは固定ライト、トレノはリトラクタブルヘッドライトだ。コンパクトカーが続々とFF化されるなかFRレイアウトで登場。現役当時はお世辞にも走りの評価は高くなかったが、1995年に発刊された『頭文字D』の影響により絶版後大ブームとなった。主人公の藤原拓海は3ドアハッチバックのトレノに乗っているが、2ドアクーペもある。今でも人気は継続中で、中古車はビックリするような価格のモデルも多数。2012年にデビューした86はAE86をオマージュし86と命名された。

『頭文字D』の影響もありAE86は若者の心を惹きつけた

市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。

写真/TOYOTA、ベストカー

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