かつての写真小僧が約50年ぶりに思い出の地を訪れた。山口博氏は、中学・高校生時代に日本全国を巡り鉄道の写真を撮り続けたが、特に北海道は忘れられないエピソードばかりだという。以下、山口氏の秘蔵写真と貴重な体験を公開しよう。
画像ギャラリーかつての写真小僧が約50年ぶりに思い出の地を訪れた。山口博氏は、中学・高校生時代に日本全国を巡り鉄道の写真を撮り続けたが、特に北海道は忘れられないエピソードばかりだという。以下、山口氏の秘蔵写真と貴重な体験を公開しよう。
2025年3月15日のダイヤ改正で廃駅に
北海道の宗谷本線にある最北の木造駅が抜海駅(ばっかいえき)だ。宗谷本線は旭川市から稚内市にかけ約260kmあり、稚内市にある抜海駅は旭川から約245km、日本最北端の終着駅、稚内駅の手前約14kmで、2駅目に位置します。
1924(大正13)年6月25日に開業。抜海と言う地名は、海の近くに大きな岩が小さな岩を背負っているようにみえる岩があり「抜海岩」と呼ばれることから付いたとされています。稚内市のホームページによると、アイヌ語の「パッカイ・ペ=子を背負う・もの」に由来するらしいです。
抜海駅は「最北の木造駅」や「最北の秘境駅」と言われ、多くの鉄道ファンを魅了してきました。これまで、映画やテレビにも登場していて、代表的な映画では『南極物語』(1983年)、テレビでは小泉今日子さん初主演の連続ドラマ『少女に何が起ったか』(1985年、TBS系)などがあります。2024年6月には100周年を迎えて、お祝いの式典が行われ、道内外から多くの方々が参加しました。
抜海駅には昭和後期、地元の子どもたちによって貝殻で作られた大きな駅票があります。だいぶ年月が経ち、貝殻もいくつか落ちてしまい、「海」と「駅」の文字は読みづらくなってしまいました。その抜海駅は残念ながら、2025(令和7)年3月15日のダイヤ改正で廃駅となる事が決まったのです。
亡き父と機関車を撮影した思い出
抜海駅は、私にも多くの思い出がある駅です。最初に訪れたのは昭和1970(昭和45)年、今は亡き父親と北海道へ行き、C55型機関車を抜海駅と南稚内駅間で初めて撮影しました。撮影ポイントは、宗谷本線で唯一、日本海と「利尻富士」が車窓から見られる絶景地点。「利尻富士」とは、海を挟んで30kmほど西の利尻島にある利尻山(1721m)の通称だ。
旭川駅を深夜0時1分に出発して稚内駅に早朝6時36分に着く、C55型蒸気機関車が重連(2機)で牽引する夜行急行列車「利尻」号を待ったのです。早朝に通過するため、日が長い夏の時期しか撮影は出来ません。秋から冬、春の日が短い間は真っ暗です。この日は曇りでしたが、辺りが撮影可能な明るさになった頃、C55の重連が私達親子の前を通り過ぎました。
別の日、抜海原野と利尻富士をバックに、気動車とC55が牽引する322列車(稚内発7時55分小樽駅行き)も撮影しました。これらの写真は鮮明ではありませんが、私にとって、抜海駅と同時に亡き父との思い出を感じる懐かしい写真です。
抜海駅は日本最北端の終着駅の稚内駅から2駅目。321列車を旭川駅から200km以上牽引してきたC55型蒸気機関車にとって、稚内発18時8分発の急行「礼文」とすれ違いをするため、短時間、休息できる駅です。人間で言えば、一息入れて、さぁ、頑張ろう!というところでしょうか。
抜海駅で急行「礼文」を待つC55を撮影しました。そして、ピントが少しずれていますが、もう一枚はC55型蒸気機関車から稚内に向かってとらえたショット。向こうから走ってくる急行を待っています。
雪の2枚の写真は、抜海駅でほぼ同じ位置です。同時間でも冬は真っ暗になります。先に到着して待機しているSLの横の線を通過する急行「礼文」と、抜海駅を出発して稚内駅へ向かうC55です。
駅が繋いでくれた人々との出会い
1971(昭和46)年の冬休み、抜海駅で稚内駅とは反対側に進んだ1駅目、勇知(ゆうち)駅方面の高台に登り、抜海駅を旭川方面に向けて発車する322列車を撮影しました。2025(令和7)年では抜海駅そばには、一軒の家しかありませんが、当時の写真を見ると、1971(昭和46)年頃は駅のそばに人家が数軒以上あったのがわかります。
抜海駅から利尻富士が見える絶景場所を越えて、南稚内駅側でも撮影しました。急行「礼文」南稚内駅側は荒涼たる原野の中を走ります。当時のディーゼル急行「礼文」は、編成がこんなに長かったのかと驚きます!
「礼文」と、ほぼ同じ地点から望遠レンズで撮影した322列車。当時、321列車と322列車はC55型蒸気機関車が牽引する列車で、私達SLファンが熱中して撮影した列車です。
抜海駅では、何度も駅長さんにお世話になりました。特に有り難かったのは、私が蒸気機関車の撮影をする時、自転車を貸してくださった事です。通常、撮影ポイントまで歩きますが、自転車のお陰で、1時間かかる所を十数分で行くことが出来て、その分、撮影範囲も広がるので助かりました。
抜海駅の駅長さんとの思い出で、今でも最初に頭に浮かぶのは人との繋がりです。私が抜海駅に行く前の日、名寄(なよろ)本線の興部(おこっぺ)駅で9600型蒸気機関車の撮影をしましたが、駅員さんから「これからどこへ行くの」と尋ねられ、私が「抜海駅に行きます」とお答えすると、「今の抜海駅の駅長さんは、前、興部駅にいた方だよ」と仰ったので驚きました!
たまたま、私は英会話用のカセットデッキでSLの通過音を録音していましたので、「そうだ!抜海駅長さんをご存知の興部駅員さんに、抜海駅長さんご夫妻へのメッセージを録音して貰おう」とご提案しました。すると、有り難い事に駅員さんのほぼ全員の方からお言葉を頂けました。
翌日、抜海駅周辺でSLを撮影した後、抜海駅駅舎で駅長さんご夫妻に、その音声を聴いて頂くと、「ああ~、とても懐かしいわ」と奥様が涙ぐまれるのを見て、私も目頭が熱くなった事を覚えています。その日は駅長さんご夫妻から、本当にいろいろな鉄道思い出話を伺う事が出来ました。
東京へ戻ると、抜海付近で撮影した写真をパネルにしてお送りして、感謝の気持ちをお伝えしました。抜海駅に限らず、私達は駅を通して多くの方々と出会い、温かな思い出も残ります。抜海駅は駅ができて、約100年です。訪れた方々が残された思い出の数は想像できません。
52年後に再訪した抜海駅の姿
宗谷本線で最後の蒸気機関車を撮影した後、私が抜海駅を訪れたのは、52年後の2022(令和4)年でした。その年の春、抜海駅がもうすぐ廃止になる可能性があるという記事を読み、「いま行かないと」の思いが湧き出て、同年9月、抜海駅へ向かいました。
旭川駅13時35分始発、稚内駅行き特急「サロベツ1号」に乗りました。ただ、この日は、天候が崩れて、私が乗る特急以降の列車はすべて運休、翌日は、私が予約した稚内駅13時01分発の特急「サロベツ4号」より前の午前中の列車はすべて運休という、まさに、ギリギリセーフの状況でした。
旭川駅で、その日に泊まる予定の民宿のご主人から私の携帯に、「山口さん、夕方、稚内から抜海駅に行く列車が運休になりましたので、南稚内駅で特急を下車して下さい。お迎えに参ります」と連絡がありました。抜海駅から2km位の所にあるこの民宿のご主人は、ボランティアで抜海駅の掃除をしておられます。
私のように遠くから抜海駅を思うだけでなく、実際に駅を守っていらっしゃる事に頭が下がります。民宿の夕食は心のこもった美味しい料理で、宿泊されていたバイクライダーの方々と鉄道話で盛り上がりました。
私には抜海駅で、忘れられない思い出の道があります。1970(昭和45)年8月に初めて抜海駅で降りた時に見た、駅前から真っ直ぐ1km以上続く道です。道の先は、抜海原野と日本海に浮かぶ利尻富士です。2022(令和4)年のこの時も、抜海駅前から、このまっすぐな道を歩く事を楽しみにしていました。
宿を出てしばらく歩いていましたが、私が歩きたい、抜海駅に向かう細い道はありません。見つかったのは、二車線舗装でトラックが高速で走る道の標識です。
「えっ!もしかして!!」。なんと、私の記憶にあった小道は抜海駅前から200mくらいで、現在はなんと、その先は大型車が数多く走る立派な道になっていました。正直、この状況を見た私は言葉を失いかけました。気持ちが落ち着くと、半世紀近い年月が経っているのだから、変わっているのは当然で、昔のままを期待していた事に申し訳ない気持ちになりました。
抜海駅を訪れると、待合室内の壁には懐かしい写真が貼ってあり、思い出ノートには多くの方々がコメントを残されていて、駅構内は奇麗に清掃されていました。抜海駅は無人駅ですが、駅の前後にはポイントがあり、稚内方面のホーム下り線は1番線、旭川方面ホーム上りは2番線に分かれて、列車は別々の線路を走ります。
この日、午前中の列車は運休でしたので、ゆっくりと駅を散策することが出来ました。鉄道ファンの方で、この日、出会ったのは1人だけです。
抜海駅の駅長さんと数多くの思い出がある懐かしい官舎は跡形もなく、現在、駅前には一軒、家があるだけです。一日の平均乗降客数は2.2人。JR北海道が廃止の目安にしている「3人」を下回っています。抜海集落まで2km以上。駅を利用される方々が少ないことから“秘境駅”といっていいでしょう。
9月の暖かな晴天の日、駅にいるのは私一人。ホームにたたずみ、風の音を聴きながら、とてもゆっくりとした気持ちの良い時間を過ごしました。心残りは、昨日の夕方からの悪天によりJRの列車がすべて運休したため、JRで抜海駅に来られなかった事です。次回は絶対、JRの列車で抜海駅へ来ようと決めました。
まる2日かけて列車で抜海駅に、夢に出てきた駅舎の最後の姿
2024(令和6)年の7月に、2025(令和7)年3月のダイヤ改正で、抜海駅が本当に廃止になる可能性が高まったとの報道があり、その2カ月後、私は2年ぶりに抜海駅に向かいました。旭川13時31分発、稚内駅行きの特急に乗り、今回は稚内のホテルに泊まりました。途中、抜海駅と南稚内駅の車窓から見える利尻富士は、1970(昭和45)年と2022(令和4)年の時と変わらず、絶景でした。
私は抜海駅に約1時間滞在するために、まる2日間使いました。途中、天塩川(てしおがわ)に沿って走る宗谷本線の車窓は本当に素晴らしく、日本の鉄道の宝と思っています。昔、訪れた、羽幌線、日曹炭鉱線、天北線、美幸線、深名線、名寄本線など、宗谷本線に接続していた路線がすべて無くなったのは寂しいです。つい、車窓から、廃線跡がないか探してしまいます。正直、かつての跡形は何も残っていません(涙)。
2024(令和6)年9月18日、稚内駅10時28分発の列車に乗り、抜海駅には10時46分に着きました。2024(令和6)年9月24日、抜海駅の線路は、上り線と下り線の2本から、駅舎がある方の線路1本のみになります。この9月18日は、2番線が廃止される6日前で、最後の2本の線路を見ようと、2022(令和4)年の時とは違い、多くの鉄道ファンが抜海駅にいました。
線路が2つある駅が、線路一本になる事を棒線化と言います。抜海駅が棒線駅になる6日前の2番線に停車する4326D列車を撮影しました。駅構内で出会った学生さんに、抜海駅に官舎があって駅長さんもいらしたことをお話しすると、「想像できません」と驚かれていました。
今の駅や周りの風景を見ると、そう思うのも仕方ありませんが、私の心には、この先、地元の方を含めて抜海駅の姿を知っている人が減っていく事に寂しさを覚えました。
抜海駅で最後の約1時間を過ごした私は、11時48分発の稚内駅行きディーゼル列車に乗りました。抜海駅から最後の乗車!手にした抜海駅乗車証明券は思い出の1枚となりました。抜海駅、100年間ありがとうございました。
稚内駅で駅弁を食べて、13時01分発の特急「宗谷」で旭川へ向かう途中、抜海駅を通過する時、駅を撮影しようとカメラを構えていましたが、高速で、あっという間に通過してしまい、写真は撮れずで、「現実は厳しい」と思わず笑ってしまいました。
この日の夜、稚内市から約300km南下した富良野市のホテルで、サラダとハンバーグを食べながら富良野ワインを飲み、一人、ゆっくり、抜海駅で出会った方々の懐かしい顔、これまでの思い出を思い浮かべながら時を過ごしました。
もう、廃止される前に抜海駅へは行けませんが、抜海駅は無くなっても思い出は消えません。布団の中でウトウトしていると、稚内駅でレンタサイクルを借りて、抜海駅があった場所を訪れている自分の姿が目に浮かびました。
文・写真/山口博
青山一丁目カイロプラクティック院院長。昭和31年生まれ。早稲田大学卒業後、社会人を経て昭和62年からカイロプラクティックを始める。学生時代から鉄道が趣味で、今も鉄道の旅を続ける。メディア出演多数。放送大学「負けない体を作る姿勢学」講師 、(一社)日本姿勢教育協会理事、元早稲田大学オープンカレッジ講師。「青山一丁目カイロプラクティック院」(https://aoyama1.jp)は完全予約制(info@aoyama1.jp)