鉄道の「廃線」を巡る わずか644メートルの線路にたどる戦後復興期の記憶 井の頭線と小田急線とを結んでいた世田谷区に存在した連絡線の軌跡 #世田谷#世田谷代田#鉄道 記事に戻る 「大東急時代」の東京急行・鉄道軌道路線図(昭和21年7月、東京急行電鉄運輸局電車部業務課作成)=資料/国立公文書館所蔵大東急の鉄道路線図に記載された井ノ頭線~小田原線を結んでいた連絡線。「×」記号は、その駅に上下線を渡るポイントがあることを示している。東京急行・鉄道軌道路線図(昭和21年7月、東京急行電鉄運輸局電車部業務課作成)=所蔵/国立公文書館蔵(朱書きは筆者加筆)山手大空襲で被災焼失した東急小田原線の世田ケ谷中原駅(現・世田谷代田駅)。この1か月後に井ノ頭線との間を結ぶ「連絡線」が建設された。1945(昭和20)年5月撮影、小田急75年史〔2003年刊〕より=資料所蔵筆者私鉄会社の発展にみる大東急時代と分割再編後の姿。東京急行電鉄50年史〔1972年刊〕より=資料所蔵筆者門と玄関の間を走る連絡線の線路敷(子どもが歩いているところが線路敷)。東京タイムズ、1951(昭和26)年8月1日付紙面より=資料個人蔵東京タイムズに掲載された連絡線に関する記事。1951(昭和26)年8月1日付紙面より=資料個人蔵米軍が撮影した空中写真に見る現役当時の連絡線(朱書き線部分)。1947(昭和22)年9月8日撮影=資料出典/国土地理院〔USA-M449-120〕(朱書きは筆者加筆)当時の世田谷区詳細図に記載された連絡線の線形。図中の丸数字は現況写真の位置を示す。1/10000地形図〔1946(昭和21)年測図〕より編成=資料所蔵/JLNA(朱書きは筆者加筆)井の頭線・新代田駅の上りホームから見た連絡線の軌道敷跡(朱書き線)=2026年5月6日、世田谷区代田新代田駅近くの住宅街には、井の頭線代田変電所に関する標識が掲げられていた。この標識は、「連絡線」とは交錯しない位置関係にあった=2026年5月6日、世田谷区代田〔現況写真①〕連絡線跡に建てられた住宅地は、鉄道らしい緩やかな曲線を描くように建てられている=2026年5月6日、世田谷区代田〔現況写真②〕写真に見る道路左側の住宅地に連絡線の線路敷があった=2026年5月6日、世田谷区代田〔現況写真③〕朱書線をなぞるように連絡線の線路敷は、右手(世田谷代田)方向へと進み、その先には連絡線唯一の鉄橋が存在した。写真に見る道路の先が谷地になっていることがわかる=2026年5月6日、世田谷区代田〔現況写真④〕連絡線唯一の鉄橋は、写真に示す朱書き絵のあたりにあった=2026年5月6日、世田谷区代田〔現況写真⑤〕樹々が覆い茂る住宅街の中の道を抜けると、地下線化された小田急線の世田谷代田駅前へと続く遊歩道に出る。廃線跡はこの先で道路を横断し、世田谷代田駅へと進んでいた。この付近には、お洒落なシュークリーム屋さん〔白髭のシュークリーム工房〕があった=2026年5月6日、世田谷区代田〔現況写真⑥〕地下線化された小田急線の地上部に備わる遊歩道は、連絡線の軌道敷跡でもあるが、その痕跡を記すモニュメントなどは一切ない。この道を進むと左手に世田谷代田駅があり、正面に環状七号線のアンダークロスがある=2026年5月6日、世田谷区代田 記事に戻る わずか644メートルの線路にたどる戦後復興期の記憶 井の頭線と小田急線とを結んでいた世田谷区に存在した連絡線の軌跡