昭和の時代、渋谷の街を歩いていると「“東急”井の頭線の乗り場はどこですか」と聞かれたことを思い出す。1940(昭和20)年前後の一時期、帝都東京の西南を走る私鉄は東京急行電鉄(大東急)に合併され、井の頭線も「東急井ノ頭線」と名乗っていた。当時を知る人からすれば、自然な呼び方だったのかもしれない。その井の頭線は、先の大戦中に起きた”山手大空襲”により電車の80%が全焼被害を受けた。他の路線と線路がつながっていない井ノ頭線は、急遽、東急小田原線(当時、現・小田急線)などから応急的に電車を借り入れることになった。そこで、両線が交わる下北沢駅の東側にある井ノ頭線代田二丁目駅(現・京王井の頭線新代田駅)と小田原線世田ケ谷中原駅(現・小田急線世田谷代田駅)とを結ぶ全長644メートルの「連絡線」を突貫工事で建設した。今回は、この戦後わずか8年しか存在しなかった東京・世田谷の「戦災復興連絡線」の歴史を垣間見ることにしたい。
※トップ画像は、井ノ頭線の代田二丁目駅(当時)から小田急線へと伸びていた連絡線の分岐部。1952~3(昭和27~8)年ごろに撮影したものと思われる。京王帝都電鉄30年史〔1978年刊〕より=資料所蔵筆者
「大東急」と呼ばれた帝都・西南私鉄の黄金期
1942(昭和17)年5月、東京横浜電鉄(のちの東急電鉄)は、当時の鉄道省(現・国土交通省)の勧めもあり、帝都東京の西南地域を走る私鉄のうち、京浜電気鉄道(現・京急電鉄)と小田急電鉄を合併して、「東京急行電鉄」を成立させた。
これら3社の社長は、企業買収でその名を馳せた“強盗慶太”の異名を持つ、のちの東急グループ総帥となる五島慶太氏である。この合併は、当時の“陸上交通事業調整法”を背景にした仕組まれた合併であったことは否めない。これにより、帝都東京の西南地域から神奈川県一帯の交通機関3社は、一つの会社によって経営され、鉄道の総営業キロは270km、1日の平均乗車人員136万人、従業員数は1万人を超える大所帯となった。時は先の大戦下でもあり、3社間で電車をはじめ鉄骨資材や燃料などを融通しあうことで、合理的かつ計画的な経営により、安定的な公共交通輸送として貢献できたことは何よりも大きな成果であった。
陸上交通事業調整法は、昭和13年8月に施行されたもので、同じ帝都西南地域にあった京王電気軌道(現・京王電鉄)もその対象となっていた。京王との合併交渉は難航を極めたが、遅れること1944(昭和19)年5月に東京急行電鉄と合併した。当時の京王線は、京王新宿駅~東八王子駅(現・京王八王子駅)、調布駅~京王多摩川駅、北野駅~多摩御陵前間の計45.9kmを運営していた。ここに井ノ頭線(=帝都線)の名がないのは、当時は小田急電鉄に属す路線だったためで、京王とは何ら関係がなかった。のちに京王井ノ頭線と名乗るようになったのは、戦後のことだった。
















