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大東急の解体と連絡線の去就

ところで、この連絡線には正式な名称がないとされる。地域名をとって「代田連絡線」と呼ぶ節もあるが、これはあくまでも通称に過ぎず、大東急時代に作成された鉄道軌道路線図などにも具体的な路線名の記載はなかった。また、当時の記録文書に見る井ノ頭線の路線キロは12.8kmで、そのなかに連絡線の長さ(0.644km=約0.7km)は含まれていなかった。

連絡線の扱いがどうであったのか。単なる側線(本線のおまけ)という扱いであったのかは、気になるところであるが、具体的な公文書(鉄道省届出文書)を見つけることはできなかった。戦後間もないこともあり、ドサクサで作った”連絡線”とはいえ、判然としない。この連絡線自体は、1947(昭和22)年までは頻繁に使用されていたとされ、その後は時折使用される程度だったという。

1948(昭和23)年4月になると、「私的独占の禁止および公正取引の確保に関する法律」、いわゆる独占禁止法が公布され、同時に「過度経済力集中排除法」も交付されるなど、「大東急」となっていた西南地域の私鉄を源流とする私鉄各社は、次第にその機運を「大東急解体」へと舵を切っていった。1947(昭和22)年12月には、”大東急”の株主総会で会社再建、事業を適正規模に分割、分離することが採決され、各線の交通系略や独立採算制の観点やこれまでの沿革を考慮し、1948(昭和23)年6月に第1会社として京王帝都電鉄、第2会社は小田急電鉄、第3会社が東京横浜電鉄(東京急行電鉄)、第4会社に京浜急行電鉄として、「大東急」は分割再編成された。

井ノ頭線の歴史は、もともと帝都電鉄として発足し、その後、小田急電鉄と合併した経緯を持つ。そのため、大東急が分割再編された際には、小田急電鉄へと戻るものと思われていた。しかし、旧・京王電気軌道は、合併前の主幹事業であった電灯電力事業を失っていたため、京王線だけでは採算が取れず、井の頭線を編入して経営基盤を安定させることになった。これに対し、旧小田急電鉄や井の頭線所属社員は、そろって反対したという。 

その後、京王線と井ノ頭線(旧・帝都線)は、新たに設立する「京王帝都電鉄」に譲渡(譲渡額5115万2800円)することで決着をみた。これに合わせて件の「連絡線」も、井ノ頭線の所属として京王帝都電鉄の財産へと編入された。

私鉄会社の発展にみる大東急時代と分割再編後の姿。東京急行電鉄50年史〔1972年刊〕より=資料所蔵筆者
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手放したくない京王帝都電鉄(当時)と地権者住民との攻防
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