手放したくない京王帝都電鉄(当時)と地権者住民との攻防
連絡線が年間を通じて幾度も使用されなくなっていた頃の新聞=1951(昭和26)年8月1日付の東京タイムズ紙には、「早くはずしてくれ」、「レール家宅を罷通る」、「京王帝都相手どり沿線住民が強談判」の見出しに見る地権者や住民からの「連絡線廃止」の意見記事が掲載された。
同紙には、「門と玄関の間を電車が走る、線路がじゃまでガス、水道が引けない・・・。戦争中強制的に宅地内に敷設された井之頭線代田二丁目駅と小田急線世田谷代田駅を結ぶ京王帝都電鉄の引込線六百五十メートルの沿線住民二百五名が同軌道の撤去を会社側に要求するとともに、署名陳情書を都議会、運輸省、消防庁、区役所等に提出住宅街珍騒動を巻き起こしている。」(以上、原文ママ)と記される。
当時、国の政策論として強権発動をもチラつかされた地権者や住民らは、「(今となっては)泣き寝入りで連絡線の建設を承知したという。戦後になり、いつになっても連絡線が撤去されることはなく、とうとう堪忍袋の緒が切れた地権者や住民らが、署名運動に打って出たというわけだ。線路を渡らなければ道路に出られない、線路が邪魔で自動車の通行ができない、火災時の消火活動でポンプ車が家の前まで入れない、連絡線はの周辺住民の通路と化しており、自宅敷地内や玄関先を身勝手に通行されることは不用心極まりない、戦前は水道・ガスが宅内まで入っていたが、連絡線によって遮断されたままになっている」といった、ごもっともな意見が多く寄せられていた。
これに対し京王帝都電鉄(当時)は、撤去運動に先手を打つ形で運輸省や世田谷区役所などに対して、“連絡線の重要性”を唱え、「線路ははずせませぬ」と訴えた。その理由として、「同線は常時は使用していないが、連絡線として重要であり、将来は京王線(井ノ頭線)の乗客を、江ノ島、箱根方面へと誘致する路線として活用したい。沿線の方にはお気の毒で申し訳ないが、目下対策に苦慮しており、検討を重ねているところだ」と苦しい胸のうちを明かした。
以上のやり取りは、いまから75年も前の出来事(連絡線の開通は81年前)であるが、双方ともに大変な思いをしていたことは確かな事実だ。この新聞記事から2年後となる1953(昭和28)年8月に、京王帝都電鉄は連絡線の廃止を決定し、同年10月までにレールなどの鉄道施設を撤去して決着をみている。今では、世田谷の閑静な住宅街と化した連絡線跡地で、このような出来事があったことなど、よもや想像すらできないだろう。



