連絡線の廃線跡をたどる
廃線から73年も経過した住宅街の廃線跡探訪は、期待する鉄道遺構に出会える確立もぐんと低くなる。ひたすら古地図や空中写真と現況地形図を対比させながら街中を散策する姿は、不審者と思われても仕方のない様相だろう。今回もご多分に漏れず、世田谷区の閑静な住宅街を、轍なき鉄路を追い求め歩きはじめた。
まずは、トップ画像の場所となる、京王井の頭線・新代田駅(世田谷区代田)の下りホーム先端へ。上り線に面したアパートのあたりから、右にそれるように連絡線があったのだろうと想像する。駅の外へ出て、住宅街へと入り込むと、もちろん路盤跡(線路跡)など遺されているわけもなく、たぶんこの辺りを通っていたのだろうと推測しながら歩を進めた。時代が時代だけに、連絡線の詳細を記録したカラー写真はおろか、モノクロ写真でさえも残されているものは極めて少ない。頼りになるものは、古地図と空中写真だけだ。
そんな住宅街の中に井の頭線の変電所「代田変電所」を発見。本線や連絡線と微妙な距離感のある場所に、その変電所はあった。もしや、連絡線の電化(架線送電)に関係するのではないかと調べたところ、変電所は1950(昭和25)年7月に施工認可(延べ工事費34670円、うち土地購入費450坪1035円)を受けて工事に着手していることから、使用開始は早くても1951(昭和26)年以降と推測され、連絡線の電化との関係性はなさそうだ。当時の井ノ頭線は、渋谷駅~吉祥寺駅までの12.8kmの間に、和泉変電所(明大前駅~永福町駅間)1か所しかなかった。戦後の井ノ頭線の輸送力増強による電力需要をカバーするために、代田変電所が設置されたというわけだ。(和泉変電所は、既に廃止されている。)
連絡線は、全長644mが円弧を描くような線形をしており、既に連絡線のために占拠された土地は地主らに返還されていることもあり、廃線跡(路盤)が都道や区道といった道路へ転用された形跡は見当たらない。当地の地形は、新代田駅(井の頭線)から世田谷代田駅(小田急線)に向かって、緩やかな上り勾配になっており、新代田駅から追って三分の二の地点には、地形の起伏により生まれた小さな谷があり、そこには短い鉄橋が架けられていた。この鉄橋は、軌道(線路)とともに鉄道連隊が架橋したもので、“鉄連式”と呼ばれる枕木などで組んだ簡易構造の鉄橋だった。
その先にある樹々が覆い茂る住宅街の中の道を抜けると、地下線化された小田急線・世田谷代田駅前へと続く遊歩道に出た。線路が地上を通っていた時代の世田谷代田駅の裏手には、わずかに連絡線の路盤(線路跡)を見ることができた。そこも今となっては遊歩道と化していた。同駅の目の前には環状7号線(都道318号線/アンダーパス)が通っているが、連絡線があった当時は環七の姿はなく、小田急線と連絡線は並走しながら環七へと拡幅される前の道路を踏切で横断し、その先で合流していたようだ。
なんとなく、このあたりを連絡線が走っていたのか、という感触しかつかめなかった今回の廃線跡探訪。当時のことを知る人も、年々少なくなっていることだろう。先の大戦の影響を多分に受けた「連絡線」のことは、末永く語り継がれることだろう。



文・写真/工藤直通
くどう・なおみち。日本地方新聞協会特派写真記者。1970年、東京都生まれ。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物に関連した取材を重ねる。交通史、鉄道技術、歴史的建造物に造詣が深い。元・日本鉄道電気技術協会技術主幹、芝浦工業大学公開講座外部講師、日本写真家協会正会員、NPS会員、鉄道友の会会員。













