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山手大空襲と連絡線の誕生

先の大戦で本土決戦がささやかれるようになったころ、1945(昭和20)年3月の東京大空襲以降、大規模な焼夷爆弾による空爆が相次いだ。なかでも、同年5月の東京郊外を中心とした山手大空襲では、東京都区内の大半を焼失し、大東急の各路線も空襲被害を受けた。特に東急井ノ頭線(当時)の永福町駅(杉並区永福)に隣接する電車の車庫や工場への空襲被害は甚大なものとなり、乗合自動車(路線バス)の車庫を含む付近一帯は全滅した。31両あった電車のうち24両の電車が全焼し、無事だったのは渋谷駅~神泉駅間にあるトンネルに避難させていた2両だけで、残る5両も半焼・損壊するなど悲惨な状況だったという。

そこで、大東急率いる東京急行電鉄は、井ノ頭線の電車を救済するために小田原線から10両、製造過程にあった12両を急ぎ運び入れて使用することを決定した。しかし、井ノ頭線は今も昔も他の路線とは、線路がつながっていなかった。そこで、両線が近接する井ノ頭線代田二丁目駅(現・井の頭線新代田駅)と小田原線世田ケ谷中原駅(現・小田急線世田谷代田駅)間を結ぶ、全長わずか644メートルの「連絡線」を建設することになった。

連絡線の建設にあたっては、周辺用地が空襲による被害を受けていたことや、残された畑や家屋を含め、なかば強権発動のような形で地主や居住者から用地を供出させたという。連絡線の建設は、空襲被害による鉄道復旧工事を担っていた”陸軍鉄道第二連隊”の鉄道工兵が、急遽動員された。線路敷設は突貫工事で行われ、空襲からわずか1か月後となる1945(昭和20)年6月下旬に完成をみたという。それから9月までの間に、小田原線から2両編成の電車5本(計10両)が、連絡線を通って井ノ頭線に投入された。

連絡線は完成当初、電化(電気運転)されておらず、車両の入換は人力で行ったという。昭和の終わりか平成初期のころ、この電車の搬入作業に携わった方と話をしたことがあった。電車を1両ずつ複数人によりワイヤーで引っ張りながら緩やかな勾配を手で押して、電車を搬入したそうだ。そしてまもなく連絡線は電化され、国鉄から応援にきた電気機関車がその作業にあたったという。しかし、軟弱な路盤(レール)ゆえ、国鉄の電気機関車ではスペックオーバーとなり、すぐにやめてしまったという。その後、ここを通る電車は自力で走るようになったと話されていたことを思い出す。その方は、鉄道そのものに興味はなかったようで、淡々と仕事としての搬入作業を説明してくれた。

大東急の鉄道路線図に記載された井ノ頭線~小田原線を結んでいた連絡線。「×」記号は、その駅に上下線を渡るポイントがあることを示している。東京急行・鉄道軌道路線図(昭和21年7月、東京急行電鉄運輸局電車部業務課作成)=所蔵/国立公文書館蔵(朱書きは筆者加筆)
山手大空襲で被災焼失した東急小田原線の世田ケ谷中原駅(現・世田谷代田駅)。この1か月後に井ノ頭線との間を結ぶ「連絡線」が建設された。1945(昭和20)年5月撮影、小田急75年史〔2003年刊〕より=資料所蔵筆者
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大東急の解体と連絡線の去就
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