7月初旬、ロシアのプーチン大統領が、ある法律の施行を認める書類にサインした。それは自国産のスパークリングワインにのみ「シャンパン」という表記を許すというもの。つまり、本家フランス・シャンパーニュ地方のワインが「シャンパン」と名乗るのを違法とするというのだ。
本家フランスの「シャンパン」がロシアで売れなくなる
このニュースを最初に世界に伝えたのは7月6日のAFP(フランス通信社)電。ニュースは以下のように続く。
〈これを受けて、フランスの高級ワイン大手モエ・ヘネシーのロシア支部は、ロシアの酒類輸入業者に出荷を停止すると通達した〉
モエ・ヘネシー社は高級ブランドグループLVMHの一翼を担い、モエ・ヘネシー、ヴーヴ・クリコ、ドンペリニヨンなどのブランドで知られる。本家のシャンパンにはラベルに堂々と「シャンパーニュ(シャンパンのフランス語読み)」と明記されているのだから、新法によってロシアではヴーヴもドンペリも売れなくなってしまう。
早速、内外のワイン関係者がこのニュースに反応を示した。大半は「とんでもない」「プーチンは何を考えているのか?」といった論調だ。ロシア国内でも様々な反響があり、「今度はスコットランド人やアメリカ人が“ウイスキー”という言葉を使うのを禁止する必要がある」「ロシア議会は“メルセデス”という名称や地名(ウルグアイにメルセデスという名前の町がある)を禁止する法案を可決するかも」といった読み手を脱力させるようなジョークが生まれている。
原産地呼称制度は、世界が遵守するべき紳士協定
本コラムの「第1話」でも述べたが、世界中の商業化されたワインの大半が、原産地呼称制度という法律によってその名称を守られ、品質を保証されている。かつては、「アメリカ産のシャブリ」や「ブラジル産のプロセッコ」も流通していたが、現代では「シャブリ」と名乗れるのは、フランスのシャブリという町の周りに広がる畑でシャルドネ種により、定められた方法で醸造される白ワインに限られているし、「プロセッコ」もイタリア北部の特定地域でグレラ種のブドウを85%以上使い、定められた製法で造られる発泡性ワインに限られている。
シャンパンも言わずもがなで、フランスのシャンパーニュ地方でシャルドネ、ピノノワールなど特定の品種を用い、定められた製法を守って造る発泡性ワインだけが、「シャンパン」を名乗ることができる。
原産地呼称制度は、EUなど特定のエリアでのみ通用する法律ではあるけれど、例えば日本で造ったスパークリングワインのラベルに「シャンパン」と記したりしたら当然訴訟沙汰になるだろう。原産地呼称制度は、世界が遵守するべき紳士協定的なものとして定着しているのだ。
それをプーチン大統領がいったいどういう了見で無視し、反故にしてしまったのか。その真意は全くわからない。世界中から非難と失笑を浴びることは十分に予想できただろうに。
シャンパンの上物と比肩できるかと問われたら……
ところで、くだんのAFP電の中には、飲料業界の専門家のものとして次のようなコメントが紹介されている。
〈ロシア市場におけるモエ・ヘネシーのシェアは比較的小さく、富裕層は代替品を見つけることができる(略)「モエ・ヘネシーがなくても、クーデターが起きたり、ロシアのエリート層が自殺したりすることはない」〉(YAHOO!ニュースより)
さて、こうなると俄然気になるのが、「ロシアのシャンパン」の実力であるが、じつは先日私は幸運にもロシアのスパークリング・ワインを試す機会を得た。コロナ騒ぎの前に友人が出張先のロシア東部の町から持ち帰ったものだ。
そのワインの名は、レフ・ゴリツィン ブリュット。きめ細やかな泡立ち。ブロンドの色合い。柔らかで、焦げ感のある酵母の香り。熟れた洋梨や麦わらのトーンがある。やや弛緩した印象でキレに欠けるのが玉に瑕だが、食事を通して飲めそうな、悪くないスパークリングだ。が、シャンパンの上物と比肩できるかと問われたら、率直なところ、難しいと言わざるを得まい。
ワイン名に、ロシアワイン中興の祖
ラベルにはロシア語表記しかなく、全く判読できなかったが、裏ラベルにQRコードがついていたので、そこからワイナリーのホームページに入り(これまたロシア語オンリー)、そこに書かれた文言をコピペしてはグーグル翻訳にかけて読んでいった。
ワイン名になっているレフ・ゴリツィン(1845-1915)はロシアの皇太子で、ロシアワイン中興の祖として知られる人物。フランスでワイン造りを学び、1878年にクリミア半島にブドウ畑を開いて、500種ものブドウを植えたとされる。91年には帝国ワイナリーの調査官の職に就き、ソビエト・シャンパン(別名、人民シャンパン)の製造に従事した。
ホームページの記述をさらに読んでいくと、このブリュット(辛口)は、サンクトペテルブルクの最古のワイナリーのひとつで、スペインで収穫されたシャルドネから造られたようだ。なぜサンクトペテルブルクなのか? なぜスペインのブドウなのか? クリミアのブドウ畑はどうなってしまったのか? 数々の疑問が残った。
イタリアのスパークリングワイン、ロシアでの販売が伸びるかも
イタリアのワイン情報サイト「ガンベロロッソ」でも早々にこの話題を取り上げている。面白いのは、この騒動のお陰でイタリアのスパークリングワインのロシアでのシェアが伸びるかもしれないと言っていることだ。ロシアでは、プロセッコやアスティといったイタリアの泡も人気で、すでに年間に2500万本が消費されているのだが、フランスがロシアと争っている間に漁夫の利を得るのではという見立てだ。まったく、油断も隙もない‥‥。
くだんのロシア語サイトは、レフ・ゴリツィン ブリュットのスペックや味わいの記述の後、こんな素敵なセールスコピーで締められている──。
「人生の大きな喜びと小さな喜びの両方に最適です」
ワインの海は深く広い‥‥。
浮田泰幸
うきた・やすゆき。ワインジャーナリスト/ライター。広く国内外を取材し、雑誌・新聞・ウェブサイト等に寄稿。これまでに訪問したワイナリーは600軒以上に及ぶ。世界のワイン産地の魅力を多角的に紹介するトークイベント「wine&trip」を主催。著書に『憧れのボルドーへ』(AERA Mook)等がある。
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