ようやく国境を跨いでの移動の自由が戻り、先頃オーストラリアへ取材に出かけてきた。その成果はおいおいこのコラムでもご披露していくつもりだが、今回はまず取材中のこぼれ話から‥‥。 シドニーで見た絵を描く人々 手元にはグラスが…
画像ギャラリーようやく国境を跨いでの移動の自由が戻り、先頃オーストラリアへ取材に出かけてきた。その成果はおいおいこのコラムでもご披露していくつもりだが、今回はまず取材中のこぼれ話から‥‥。
シドニーで見た絵を描く人々 手元にはグラスが…
ある日の夕刻、シドニー中央駅近く、流行感度の高いエリアとして知られるサリーヒルズを歩いていたとき、異様に明るい場所があって思わず足を止めた。ガラス越しに中の様子が丸見えだったが、そこには黒いエプロンを着け、カンバスに向かって黙々と絵を描く人々がいた。絵画教室かと思ったが、手元にはビール瓶やワインのグラス。壁には「内なるピカソを解放しよう」の文字。これは一体?
看板には「ピノ&ピカソ」の表記。絵筆とワイングラスがバッテンに組み合わさったものがロゴマークになっている。ピカソは言うに及ばずあの天才画家のこと、ピノはワイン用ブドウ品種のピノ・ノワールやピノ・グリを表しているに違いない。そこは絵を描きながらワインを飲む場所であるらしかった。
たまたま、一緒にいたオーストラリア人女性はこのアクティビティのことを知っていて、彼女自身も別の場所で何度か体験したことがあるという。
「ピカソ風の自画像を描くとか、自分の中のもう一つの性を描くとか、富士山を描くとか、毎回テーマがあって、インストラクターに教わりながら絵を描くの。ワインやビールを飲みながらね。私たちは女子会として使っているけど、デートに使う人もいる。ただの飲み会とは違う楽しさがあって盛り上がるわよ」
寡聞にして知らなかったが、こういうアクティビティのことを「ペイント・アンド・シップ」(Paint and Sip=描いて啜る)といい、数年前から欧米を中心に流行していて、オーストラリアでもシドニーやメルボルンには複数の店舗があるという。
プロの絵描きらが指導
帰国後、改めて調べてみると、すでに日本でも複数の企業がこの新しい業態を展開していることがわかった。そのうちの一つで、東京・原宿、代官山、横浜・元町に店舗を構えるArtBar Tokyoのビジネスリレーションマネージャー、佐藤桃実さんに話を聞いた。
──いつ、どのような経緯でArtBarが立ち上がったのですか?
「6年前に東京でスタートしました。現在の共同オーナーの一人がアメリカでペイント・アンド・シップを体験したことがきっかけです。アメリカには100店舗以上があるようです」
──日本ではどのような人が来店されるのですか?
「老若男女さまざまな方に来ていただいていますが、テーマによって、例えば『モネの睡蓮』『ゴッホのひまわり』などポピュラーなものをテーマにすると、年配の方も見え、流行りの抽象画をテーマにすると、若い女性が多くなるようです。一人で参加される方もいらっしゃいますが、グループでのご利用が圧倒的に多いです。今までと違った飲み会の形を求めている方よりは、絵を描くことを気軽に楽しみたいという方が多いようです」
──インストラクターはどのような方が?
「プロの絵描き、美術学校の卒業生がほとんどです。独自の研修を受けてもらって、クリアした人がインストラクターを務めています」
──お客さんの反応は?
「楽しい、リラックスできると好評をいただいています。描いた絵は各自で持ち帰っていただいているのですが、それを自宅で飾ったところを写真に撮ってSNSに投稿する方が多いですね」
絵を極めたいわけではなく、絵を描くという体験を気軽にやってみたいというわけか。そこにワインがあれば、なおさらハードルは下がると。ちなみに、所要時間は1セッションにつき2時間、料金は題材によって異なり、5500円〜9350円(いずれも税込)、画材はほとんどの場合がアクリル絵の具だが、他の画材を使うこともあるとのこと。画材等はすべて会場側が用意するので、客は手ぶらで参加することができる。
グループでの貸切やチーム・ビルディング(組織作り)のための利用も多いと佐藤さん。「リモートが解除になって久しぶりに対面で仕事をすることになったから、それを機にとか、新入社員との親睦のためにというオーダーは多いです」
チーム・ビルディングの一環として絵を描きながらワインを飲むという発想は面白い。ただの飲み会を開くのとは違う効果がありそうだ。
ピカソ風自画像に挑戦~グランドプリンスホテル高輪でイベント開催
ところで肝心のワインのラインナップだが、ArtBarでは特に銘柄にこだわっているわけではなく、予算に合ったワインを赤・白グラスで用意しているとのこと。もう少し「ワイン寄り」の話はないかとさらに深掘りしてみたら、以下のArtBar出張イベントが出てきた。
〈Takanawa Royal ArtBar〜ピカソ風自画像に挑戦〜〉
これは、東京・港区のグランドプリンスホテル高輪がArtBar Tokyoとコラボして開催する1日限りのイベントで、同ホテルがグループで開催中の「Spain Fair 2022」の一環(6月25日開催)。会場は100年以上の歴史を誇る貴賓館。ピカソ風自画像の制作体験、フリーフロー(飲み放題)の飲み物(赤・白ワイン、ビール、ソフトドリンク各種)、タパス盛り合わせがセットになった2時間のプランだ。料金は、9300円(宿泊がセットになったプランは1万8800円)。ワインは、乾杯用の泡がスペイン・カタルーニャ地方のポピュラーなカバ。白・赤はいずれもスペイン・アラゴン州の生産者「ボデガス・ボルサオ」のベースラインが用意されている。
ボルサオは僕も以前訪ねたことがある。キリストの肖像画に「独自の修復」をして世界中の話題となったおばあさんがいたが、このワイナリーは彼女が暮らす町のすぐ近くにある。ガルナッチャ種の赤ワインを柱に、コストパフォーマンスに優れた肉厚でチャーミングなワインを造る。ホテル側の話によると、この企画は人気で、予約でほぼ満席だが、興味のある人は問い合わせてみてほしいとのこと。
『ゲルニカ』を模写しながら、世界の平和を考えたら?
ペイント・アンド・シップというアクティビティには多様な可能性を感じる。そもそもワインは人と人をつなぐものだ。例えば、ピカソの『ゲルニカ』を模写しながら、ワインを飲み、世界の平和について考えるというのはどうだろう? いや待てよ、19世紀イギリスの芸術家・美術評論家・作家のフィリップ・ギルバート・ハマトンはその著書『知的生活』の中で、「ワイン党は頭はきれるが興奮しやすい。一方、ビール党は鈍重だが、その鈍重さの中には平和がある」(三笠書房刊、渡部昇一・下谷和幸訳)と述べている。この企画はビールに譲るべきか?
最後に小ネタをもう一つ。今日、フランス・ボルドー5大シャトーの一角を成すシャトー・ムートン・ロートシルトは、1855年のメドック地区の格付け制定時点では第2級の格付けで、以来、第1級の実力があると言われながらもその地位に甘んじていたが、100年以上にわたる奮闘の末、1973年ヴィンテージで悲願の第1級昇格を果たした(メドック格付けにおける歴史上唯一の変更)。この記念すべき年のラベルに使われたのがピカソの『バッカナール』という作品だった。ちなみに、ピカソはこのヴィンテージと同じ1973年の4月に他界している。
ワインの海は深く広い‥‥。
Photos by Yasuyuki Ukita
写真協力:ArtBar Tokyo
浮田泰幸
うきた・やすゆき。ワイン・ジャーナリスト/ライター。広く国内外を取材し、雑誌・新聞・ウェブサイト等に寄稿。これまでに訪問したワイナリーは600軒以上に及ぶ。世界のワイン産地の魅力を多角的に紹介するトーク・イベント「wine&trip」を主催。著書に『憧れのボルドーへ』(AERA Mook)等がある。