駄菓子は約100種 色とりどりの駄菓子は約100種。麩菓子、きな粉棒、あ、ラムネもある。取材日は境内で催し物があったようで、お客が多く、集まった子供たちがカゴいっぱいにおやつを選んでいた。かと思えば親世代も、いや、おばあ…
画像ギャラリーいまどき、東京で10年続く店だって頭が下がるのに、それどころか歴史を重ね続けること100年以上。長く受け継がれ、愛され続ける老舗には、味そのもの以上に、“語り伝えたい”味があります。寿司、洋食、バー、和菓子に惣菜、定食から駄菓子まで、今に継がれる味、そして新たな時代と共に生きていく味を、たっぷりご披露いたします。連載「100年超えの老舗の味」の今回は、 東京最古ともいわれる駄菓子屋 、東京・雑司ヶ谷『上川口屋(かみかわぐちや)』をご紹介!
1781年創業、「雑司ヶ谷鬼子母神堂」境内に佇む駄菓子屋
夢か現(うつつ)か。それは映画かアニメの世界から抜け出してきたかのような不思議な店だった。目をこすってみても……確かに、ある。昔懐かしい駄菓子が所狭しと並ぶ木造。何というか、レトロなんていう言葉では言い表せない神々しさ。それも当然か。だってここは、江戸時代の建物を今に残す稀有な店なのだから。
『上川口屋』。1781年創業。東京は豊島区にある「雑司ヶ谷鬼子母神堂」境内にひっそりと佇む駄菓子屋である。「ここは特別な場所でしょう?東京大空襲でも焼けなかったんですよ。鬼子母神様のご加護だと思います」古い桐箱や菓子ケースが並ぶ棚の向こうから82歳になる店主の内山雅代さんが顔を出した。店は加賀藩前田家御用達の飴屋が前身で、現在13代目。
内山さんは10歳の頃から店番をしていたそう。「今はこうして立って仕事しているけど、江戸の御成りの際は大名より頭が高くならないよう膝を付いていたんですって。当時売っていた飴は私が子供の頃まであったかな。柚子の香りがしてね。それはとても高級なものだったから、他にも米で作った和風飴なんかも売っていました。今は駄菓子屋ですけどね」
駄菓子は約100種
色とりどりの駄菓子は約100種。麩菓子、きな粉棒、あ、ラムネもある。取材日は境内で催し物があったようで、お客が多く、集まった子供たちがカゴいっぱいにおやつを選んでいた。かと思えば親世代も、いや、おばあちゃんまで目の色変えて物色中(笑)。
駄菓子屋という存在は、大人にとって幼少期の幸せの記憶を蘇らせるタイムマシーンのようなもの。その証拠に「家族連れの40代半ばのお父さんが、店で売っているおもちゃのグライダーを懐かしがってね、奥さんに『ママ、僕これ買っていい?』って。かわいいわよね」。取材していた私だって昔好きだったポン菓子を手にほくそ笑んでいる。今、脳みそは完全に小学生だ。
そんな駄菓子屋も次々と消えつつあることは周知の通りだろう。少子化が背景にあるが、コンビニで安く売られるようになったことも大きい。昔は日暮里に駄菓子の問屋街があり、内山さんも風呂敷を担いで仕入れに行っていたそうだが、今はそれもなくなった。月の利益は平均2万円ほど。結婚54年になる夫もいるが、実は「ひとつ屋根の下に暮らしたのは数日だけ。店を背負ってる私を理解してくれてずっと別居なんです」
お得意さんだった子が大きくなり、自分の子供やその赤ちゃんも
それでも家業を守り続けるのは?率直に問えば、「”お得意さん”だった子が大きくなって、自分の子供や、またその赤ちゃんを連れて来て抱っこさせてくれたり、3代にわたって通ってくれる。こんなうれしいことはないわね。お金に変えられない。これを生きがいっていうのね」単に駄菓子を売るだけじゃない。242年の歴史を背負う店の”味”は内山さんの人生そのもの。客にとっても、今を生きるため自分の原点に戻れる場、心の故郷のような”味”なのかもしれない。
[住所]東京都豊島区雑司ヶ谷3-15-20(子母神境内)
[電話]非公開
[営業時間]10時~17時
[休日]雨・雪・台風などの日
[交通]地下鉄副都心線雑司ヶ谷駅1番出口などから徒歩4分
撮影/西崎進也、取材/肥田木奈々
※2023年5月号発売時点の情報です。
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