『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。2012年8月からは車雑誌「ベストカー」に月1回、全国各地の55のお城…
画像ギャラリー『その時歴史が動いた』や『連想ゲーム』などNHKの数々の人気番組で司会を務めた元NHK理事待遇アナウンサーの松平定知さんは、大の“城好き”で有名です。2012年8月からは車雑誌「ベストカー」に月1回、全国各地の55のお城を紹介する記事を連載。20年には『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)として出版されました。「47都道府県の名城にまつわる泣ける話、ためになる話、怖い話」が詰まった充実の一冊です。「おとなの週末Web」では、この連載を特別に公開します。旗本の末裔で、NHK時代に「殿」の愛称で慕われた松平さんの妙趣に富んだ歴史のお話をお楽しみください。
小田原城と北条早雲
北条早雲は戦国大名の「はしり」として知られます。北条というと鎌倉幕府の執権を思い出されるかもしれませんが、血縁関係はなく、北条姓を名乗るのは2代氏綱からです。北条早雲は一度も北条姓は名乗らず、伊勢新九郎(あるいは早瑞)などと名乗っていました。
伊勢氏は桓武平氏の子孫である有力な一族ですが、関東に根を下ろしたことで、権威ある北条の名前を利用したのでしょう。北条氏も桓武平氏です。鎌倉執権の北条氏と区別するため、早雲からの北条氏を後北条氏とか、小田原北条氏とも呼びます。
戦国の三梟雄…というが、筆者は反対
さて、北条早雲、斎藤道三、松永久秀を戦国の三梟雄(宇喜多直家が入ることもある)と呼ぶことがありますが、私はこれには反対です。出生不詳で他家を乗っ取ったから、などというのが、その理由ですが、早雲は近年の研究では、室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の出だとされています。当時の政所は、室町幕府の訴訟を担う役所。執事は長官ですから、最高裁長官にあたります。早雲はその庶流の備中伊勢氏の出であり、現在の岡山県井原市で生まれたとする説が有力です。それに早雲には北川殿という姉(妹という説もあります)がいますが、彼女は駿河の守護今川義忠に嫁いで、竜王丸(後の今川氏親)を生みます。この氏親の子があの義元です。
時は応仁の乱の真っ最中であり、義忠も東軍の一員として戦いますが、遠江の塩売坂で討ち死にし、これで家督争いが起こります。この調停のため、北川殿の依頼でやってきたのが早雲なのです。梟雄といわれるような素性のわからない「大ドロボー」ではこうはいきません。
「北川殿」の反対勢力は、龍王丸成人までの暫定当主に亡き夫・義忠の従兄弟にあたる小鹿範満を推しますが、成人になっても居座ったため、早雲はこの一派を蹴散らします。これによって今川氏から一目置かれるようになり、興国寺城(現沼津市)を与えられて、今川氏の家臣として氏親を補佐する任につきました。
先にもいいましたが、甥の氏親の子が義元ですから、早雲は今川氏隆盛の基礎作りに貢献した「親戚筋」で、領地を不当にかすめ取ったわけでもなんでもありません。「梟雄」と呼ぶにはいかがなものか、と主張する大きな理由のひとつです。室町時代、幕府は関東への睨みを利かせるため、鎌倉公方という出先機関を置いていました。しかし幕府の屋台骨は応仁の乱もあって弱体化しており、時の関東公方・足利成氏が幕府に反抗する事態が起きます。将軍の命を受けて今川氏がその討伐に出向き、成氏は下総国古河に逃れました。これが古河公方(こがくぼう)です。
早雲は、伊豆一国を手にした
いっぽう将軍は、新しい鎌倉公方として異母兄の足利政知を送りますが、前公方成氏の勢力が強く、鎌倉に入れずに伊豆の堀越にとどまって御所を建設しました。これが堀越公方(ほりこしくぼう)です。堀越公方の足利政知が没すると、長男・茶々丸が次期公方に決まっていた次男・潤童子(じゅんどうじ)とその母を殺害する事件が起きました。
この時、政知の三男で後に11代将軍となる義澄は、早雲に茶々丸を討つように命じたのです。早雲は堀越御所を急襲し、茶々丸を自害に追い込むことに成功しました。これを伊豆討ち入りといいます。その結果、早雲は伊豆一国を手にし、戦国時代の幕が上がったとされるのです。公方という権威が、旧来の守護大名ではなく、新しいタイプの武士に滅ぼされたわけです。
室町時代は権力構造が複雑で、わかりにくい時代ですが、大雑把にいえば、中央集権が壊れ、戦国時代という地方分権に移行する過渡期です。早雲の出現と伊豆討ち入りは、その流れを作った大事件といえるでしょう。
早雲がこうして、いわゆる伊豆討ち入りを果たして以降、関東は“戦国期”に入ったと考えられます。この時、早雲、すでに56歳。「人生50」といわれた当時は老人もいいところですが、彼の武将としての人生はなんと、ここから始まるのです。
「五公五民」が普通でしたが、「四公六民」に
早雲は伊豆・韮山城を拠点とし、領国を広げていきます。ただし農民が戦いで苦しむのを避けるため、敵が降伏を申し出た時は領地を保証し、兵の狼藉を戒めました。疫病が蔓延して村人が何百人も亡くなった時は、戦いを中断し、兵に村人を看護するように命じたりもしました。病が一段落して「じゃぁ、戦(いくさ)を再開するか」と言った時、助けてもらった村人は、誰一人として早雲と戦う者はいなかったといいます。「民にやさしい領国経営」は税制でも実践しました。当時は「五公五民」が普通でしたが、「四公六民」にしました。商工業の発展にも力を尽くしました。「他国の百姓これを聞き、われらの国も新九郎殿の国ならばや、と願う」といわれたほど、善政を敷いたのでした。
そのいっぽうで、地方豪族の大森氏が支配していた小田原城攻略の際には、贈り物で気を許させておいて、「鹿狩りをしていたら、鹿が城の裏山に逃げ込んだので、鹿を追い出すべく勢子を入れさせてほしい」と頼み、勢子に扮した早雲の兵士が裏山から城になだれ込んで大森氏を討つという奇策を成功させています。これは、目的のためには手段を選ばないというやり方ですが、戦国時代、こうした手法は、まあ許容範囲のうちだと思います。
永正13(1516)年に相模を平定した時、早雲は85歳でした。その頃の領国に出した朱印状の押印には「禄寿応穏」とあります。つまり、民が平和に暮らせるようにとの願いが込められたものでした。その思いが、後北条五代100年の基礎となったのです。
「貴殿には関八州を差し上げましょう」…「男同士の約束を守る」意味
さて小田原城に関し、私の好きなエピソードを紹介します。時は天正18年(1590年)、小田原の陣も終わりに近づいた4月9日でした。笠懸山(石垣山)城から小田原城を見下ろしながら、秀吉が家康に話しかけます。「小田原城が落ちるのも時間の問題。めでたいことだ。貴殿の働き、誠に重畳。250万石に加えて貴殿には関八州を差し上げましょう。そのかわり、三河、駿河ほか五国をお返し願いたい」。家康は「ハハーッ」と従うしかありません。そこで秀吉は、「話しがまとまった証に連れションと行こうではないか」と誘ったといわれています。この時の二人の約束は守られました。「関東の連れション」とは単にオッさんが二人して放尿したというだけでなく、「男同士の約束を守る」という意味もあるようです。
思えば江戸は、この連れションで誕生したのです。石垣山に行かれたらぜひ、秀吉と家康の面影を想像してみてください。
【小田原城】
室町時代大森氏が現在の地に山城を築く。その後小田原北条氏の居城として発展、豊臣秀吉の攻勢に備えしだいに巨大な城郭を備えるようになり、当時の大坂城を凌ぐ総延長9kmにわたる土塁と空堀があったという。5代100年続いた小田原北条氏の没落後、徳川譜代大名・大久保氏が治めた。現在の天守閣は昭和35(1960)年に復元されたもので三重四階となる。
天守閣入場料:一般510円、小中学生200円(常盤木門SAMURAI館との共通券もあり)
開館時間:9~17時
休館日:12月第2水曜日、12月31日~1月1日
住所・神奈川県小田原市城内6-1
電話:0465-23-1373
【石垣山一夜城】
小田原城の西3kmにある笠懸山(現在の石垣山)山頂にあった城。1590年に秀吉が小田原征伐の際15万(22万とも)の大軍を率い、北条軍に見えないように総石垣の城を築き、本陣を置いた。樹木を伐採して一夜にしてできたかのような錯覚を与え、戦意を喪失させたというが、実際は5万6000人もの人足で約80日間かかった。
【北条早雲】
ほうじょう・そううん。1432~1519年。戦国大名の先駆けとして知られ,後北条家5代の祖である。存命中北条早雲と名乗ったことはなく「伊勢新九郎」を名乗った。いわゆる伊豆討ち入りを果たしたのはすでに56歳、相模を平定したのは85歳。大器晩成型武将の典型である。
松平定知 (まつだいら・さだとも)
1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。現在京都造形芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。
※トップ画像は「Webサイト 日本の城写真集」