日本にアイスクリームが登場したのは、1920(大正9)年のことで、皇室でも時を同じくして“夏季の限定メニュー”になっていた。当時、宮中(きゅうちゅう)ではアイスクリームは「氷菓子(こおりがし)」と呼ばれ、午前10時や午後3時といった“お茶の時間”に限定して提供されていた。そして、意外な場所でも召し上がられていたのだ。はたして、その場所とは?
画像ギャラリー日本にアイスクリームが登場したのは、1920(大正9)年のことで、皇室でも時を同じくして“夏季の限定メニュー”になっていた。当時、宮中(きゅうちゅう)ではアイスクリームは「氷菓子(こおりがし)」と呼ばれ、午前10時や午後3時といった“お茶の時間”に限定して提供されていた。そして、意外な場所でも召し上がっていたのだ。はたして、その場所とは?
アイスクリームのはじまり
日本では、1869(明治2)年に横浜の個人商店で販売されたのが最初といわれる。その後、1920(大正9)年に東京の冨士食料品工業(現・冨士森永乳業)が工場での生産を開始し、翌年には極東煉乳(現・明治)でも工場生産を開始した。出来上がった商品は、東京の老舗百貨店などで販売していたが、当時は高価格で“贅沢品”とされていた。
大正天皇は甘党だった?
サンドイッチ、カステラ、平野水(ひらのすい=サイダー/現在の兵庫県川西市に湧き出た炭酸水)といったハイカラな品々。午前10時と午後3時の“お茶の時間”には、これらを好んで召し上がったとされる大正天皇。ハイカラなものがお好みだったと拝察する。もちろん、氷菓子=アイスクリームもお好きだったようだ。
夏のご静養は、決まって日光田母沢御用邸を訪れていたが、その滞在には東京から「アイスクリーム機械」を持参するほどだった。1921(大正10)年から1925(大正14)年まで、毎夏のお楽しみとされていたようだ。
お召列車でもアイスクリーム
大正天皇の夏のご静養地は、日光田母沢御用邸と決まっていた。上野駅からお召列車で日光へ向かうのに、3時間45分を要した。そのため、車中では“お茶の時間”として、サンドイッチ、カステラ、平野水、氷菓子が用意された。当時としては、なんとも贅沢なメニューであり、記録をひも解く限り“お召列車の中”で最初にアイスクリームを召し上がられたのは、大正天皇と貞明皇后のお二方だったようだ。
現代のように保冷設備が整っていなかったお召列車で、どのように氷菓子を保冷していたのか。氷を敷き詰めた木箱、当時の氷冷式冷蔵庫のような箱を用意したのだろうか。大正時代とはいえ、夏の時季は猛暑日もあったといわれる。大正11年は、その暑さから氷菓子とサンドイッチの提供が見送られた。「溶けること」、「腐ること」への懸念があったのだろう。
駅弁は好まれたが、アイスは・・・・
お召列車の旅を好まれた昭和天皇。数あるお召列車での移動中に「駅弁」は召し上がったが、氷菓子は私が調べた限り見つけることはできなかった。1960(昭和35)年以降のお召列車には「電気式冷蔵庫」は備わっていたが、氷菓子のご用命はなかった。
愛子さまのお気に入り
今の皇室の方々は、日常的にアイスクリームを召し上がっていることだろう。もちろん、大正天皇のように列車の中でお召し上がりになったという話は、そう耳にすることはない。そこでまだ、愛子さまが小学生だった頃の話を思い出したので、書き記すことにしたい。
当時、皇太子でいらした天皇ご一家が夏のご静養で須崎御用邸(下田市)へ向かわれたとき、東京駅から特急スーパービュー踊り子号をご利用になった。列車が伊東駅を過ぎてから、アイスクリームをお買い求めになりたいと車内販売にお申し付けがあったという。ところが、当のアイスクリームだけは商品保管上の理由から、途中の伊東駅までしか販売していなかった。このことを、ビューアテンダント(客室乗務員)がお伝えすると、愛子さまはすごく残念そうになさっていたそうだ。
文・写真/工藤直通
くどう・なおみち 日本地方新聞協会皇室担当写真記者。1970年、東京都生まれ。10歳から始めた鉄道写真をきっかけに、中学生の頃より特別列車(お召列車)の撮影を通じて皇室に関心をもつようになる。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物を通じた皇室取材を重ねる。著書に「天皇陛下と皇族方と乗り物と」(講談社ビーシー/講談社)、「天皇陛下と鉄道」(交通新聞社)など。