おとながアップデートを求められる時代である。私の記憶がたしかなら、おとなは成長を果たしたある地点での自分を維持することで、それまでの見聞を後進に分け与え、与えながらしぼんでいくことを成熟と呼び、その枯れていく境地をこそ…
画像ギャラリーおとながアップデートを求められる時代である。私の記憶がたしかなら、おとなは成長を果たしたある地点での自分を維持することで、それまでの見聞を後進に分け与え、与えながらしぼんでいくことを成熟と呼び、その枯れていく境地をこそ、老いと称賛したはずだ。教科書でも、書物でも、寓話でも、そういう教えに満ちていたと思う。
しかし現在はそうではない。ある地点の自分を維持するなど、そんな悠長なことを言っているひまはない。おとなの週末を閲覧するあなたも、おとなの例外ではないだろう。おとなを熟成させる過程は残されていないのだ。おそらくあなたも私も、職場で、家庭で、学校で、あるいはSNSやニュースから、自身を強制アップデートする必要に迫られたおぼえがあるはずだ。
■「部下のあらゆる言動が私にとってのハラスメントだ」
時に氾濫と言いたくなるハラスメントの多様性が、私たちの脳と価値基準の更新頻度を追い抜いてしまったと感じる人もいると思う。時代についていけないと諦める感覚がわかるほどには、私も少し疲れてしまった。ハラスメントは2文字に略された接頭語をともない、一見では意味が図れない4文字の新語として流通する。いまや○○ハラはいくつのバリエーションがあるのだろうか。
旧来あった社会通念や偏見を是正するのがハラスメントの目的なら、旧来のそれを略さない言葉のほうが、内抱する問題を浮き彫りにしてわかりやすいと思うのだが、どうもそうではない。ハラスメントはなぜかいつも「はじめて知る言葉」としてやってくる。カスハラだとかマルハラにいたっては、しばらく「なんのことかわからない」時間が私の中にあった。その時間はアップデートまでのタイムロスに思うけど、目新しいワードの方が社会に広く流通する力があるのだろう。
意味より先に目を惹く点に重きをおくSNSの言葉を見れば、目新しい言葉が優先されるのも無理ないことだと思えてくる。たぶん私は他の人たちよりSNSの言葉に触れる時間が長いので、体験よりも言葉からアップデートを促されることが多い。
だから職場や家庭で自身の体験として身をもって知る、身体性をともなったアップデートよりかは、いくぶんソフトな更新なのかもしれない。先日ニュースで、中間管理職とテロップの入ったほろよいのおとなが「部下のあらゆる言動が私にとってのハラスメントだ」と新橋駅前で嘆く様子を見て、その切実さに思いを馳せてしまった。
ともかく時代は変わるし、社会も変わる。少なくとも「ハラ」がつく言葉によってもたらされる私たちのアップデートは、きのうよりきょうの方がマシという方向の変化なのだから、私はよいものだと信じることにしている。
一方で私が申し上げたいのは、おとなのみなさんがいまだアップデートを失念している領域があるのではないか、ということである。SNSにいる私からすると、あまりに旧来の言葉が脳内に強く固着するあまり、現実の変化についていけていないケースをいたるところに見ることができるのだ。それは家電においても、である。
■しんどくたって、今日より明日がマシになるなら
もしあなたの家にレコーダーがあるなら、リモコンを手に取ってつぶさに眺めてほしい。そしてそこに「巻き戻し」の文字がないことに気づいてほしい。同時にあなたは、録画した番組や映画を視聴する時に、いまだ「巻き戻す」という言葉を使っていないだろうか。実は巻き戻しというワードは、ビデオテープから円盤、さらにはハードディスクに移行したレコーダー側から、とっくに絶滅している。
もしあなたの家に電子レンジがあるなら、冷蔵庫の食べ物を温めてほしい。そして温め終わりを知らせるレンジの音に、耳を澄ませてほしい。同時にあなたはレンジで温める所作を「レンチン」と称していないだろうか。
実は電子レンジはとっくにチンなんていわなくなっている。ピーとか「できあがりましたよ」と音声であなたに案内しているのだ。ついでにいうと、温め中に皿が回転することもめっきりめずらしいものになっている。
なにをいまさらと感じる人はそれでいい。しかし巻き戻しの喪失や、チンの不在にあらためて気づいた人は、今後は自分の認識を少し疑ってかかったほうがいいと思う。人間は平気で、ないのにあると思うし、聞こえない音を聞く。あってほしいという欲望は思いのほか強固で、私たちは家電にさえ、幻視し幻聴するのだ。
もしかしたらその認識の齟齬が、世代間の断絶や他者への無自覚な傷つけをもたらしているのかもしれない。ハラがないような場所でも、アップデートすべき場所はいたるところにある。しんどくたって、今日より明日がマシになるなら、そこは踏み出すべきなのだ。
そういいつつ、私はレンチンの呪縛から自由になれないでいる。つい「チンする」とか「チンして」を使ってしまう。これほど明瞭で、澄み切った音もめずらしいから、私はずっとレンジにチンを幻聴しているのだ。
そういえばレンジのできあがり音に、自転車のベルと同じチンの音を世界ではじめて採用したのはシャープである。いまから56年ほど前のことだ。半世紀を経てなお音が消えた後も言葉の音として残るのだから、チンは慧眼な機能だなと、私は幻聴するたびに思うのだ。
文・山本隆博(シャープ公式Twitter(X)運用者)
テレビCMなどのマス広告を担当後、流れ流れてSNSへ。ときにゆるいと称されるツイートで、企業コミュニケーションと広告の新しいあり方を模索している。2018年東京コピーライターズクラブ新人賞、2021ACCブロンズ。2019年には『フォーブスジャパン』によるトップインフルエンサー50人に選ばれたことも。近著『スマホ片手に、しんどい夜に。』(講談社ビーシー)
まんが・松井雪子
漫画家、小説家。『スピカにおまかせ』(角川書店)、『家庭科のじかん』(祥伝社)、『犬と遊ぼ!』(講談社)、『イエロー』(講談社)、『肉と衣のあいだに神は宿る』(文藝春秋)、『ベストカー』(講談社ビーシー)にて「松井くるまりこ」名義で4コママンガ連載中