浅田次郎の名エッセイ

「和式便座」に執着してきた浅田次郎 ついに洋式派となった“耐え難き”理由とは

バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第121回は、「改宗について」。

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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第121回は、「改宗について」。

洋式ではかなわない独特の便法

人生45年にして、ついに踏絵(ふみえ)を踏み、宗旨を改めた。

で、今回はおごそかな話をする。

そもそも私の宗旨は何であったのかと言うと、実のところ本人にも良くわからない。

生家には仏壇がなかった。べつに先祖代々誰も死んでいなかったわけではない。祖父が分家であったから、仏壇がなかったのである。

私が小学生のころ祖母が亡くなったので急遽そこいらの寺の檀家になった。その寺が東本願寺の末寺であったので、とりあえず我が家の宗旨は「浄土真宗」ということになった。ほとんど成り行きである。

ところが実はそれ以前に、家にはごうつくな神棚があった。これは何物かと言うと、私の母親の実家が奥多摩の御嶽神社の宮司であったので、嫁とりのついでに勧請(かんじょう)したのである。だったら葬式も神道でやれば良かっただろうに、そうはしなかった。

ということは、私の宗旨は先着順で言うのなら「神道」なのである。

だがしかし、あろうことか父母はミエを張って、私と兄を小学校から私立のミッション・スクールに入れた。幼稚園からの持ち上がりであったから、つごう8年間、私は毎日讃美歌を唄い、合掌をして給食をいただいたのであった。

すなわち、祖母が亡くなったあと、私は毎朝神棚に向かって柏手(かしわで)を打ち、回れ右をして仏壇に線香を供え、その足で登校したとたん讃美歌を唄うという、全然宗旨不明の生活をしていたのであった。

まずいことには中学に入学したころから漢籍に興味を覚え、その後てんで役には立っていないのだけれど、四書五経のマニアになった。

高校に入ったころ、フト気付いた。待てよ、俺は神道、仏教、キリスト教、儒教と帰依してきた。あとはイスラム教に入信すれば世界五大宗教グランドスラム達成ではないか。そこで神田の古本屋に行き、コーランを買って読み始めたところで、おのれの浅ましさに気付き、愕然とした。

その後、およそついこの間まで続いた悲惨な半生は、神仏のたたりであろうと思う。

今日まで命永らえたのがふしぎなぐらいなのである。もちろんその間、「この世には神も仏もいやしねえ」という悟りを開いた。

要するに、私が人生45年目にして宗旨を改めたというのは、もののたとえである。

前フリが長くなったが、いよいよおごそかな話をする。

私はついに踏絵を踏んだ。

昨年、バブル系新居を入手した。派手こそ美徳と信じて疑わぬ私にとって、まこと趣味に叶う家である。

この新居にはトイレが3ヵ所ある。それがあろうことか、3つとも洋式便座なのであった。

私はかねてより洋式便座を呪っていた。他人がペタリとケツをつけた便器に、我がケツが触れるという、その節度のなさが許し難かった。なおかつ、ここ1番のいきみがきかぬことが、ガマンならなかった。

自衛隊奉職以来、私の脱糞にはいささかもゆるがせにできぬ作法があった。

便意が兆(きざ)したとみるや、まずトイレの前にズボンとパンツを「姿脱ぎ」にいたし、下半身を自由にして入室する。

おもむろに蹲踞(そんきょ)し、トイレット・ペーパーで便座のきんかくしを包み、両のたなごころにてシッカリと把握する。

しかるのち、気の横溢(おういつ)、肉の緊迫を心静かにまち、時至るや機を失せずに「エイヤッ」と一気呵成に脱糞する。

常に一本糞である。切れ糞は男子の屈辱であり、いかに糞切りの悪い場合でも、いったんトイレから出て仕切り直しをする。

こうした私の「便法(べんぽう)」からすると、洋式便座は具合が悪いのである。もちろん、やってできないことはないのだけれど、例えばバットで剣術をせい、もしくは竹刀で野球をせいというようなもので、まこと具合が悪い。

ここだけの話だが、私はホテルにカンヅメになっている間にも、洋式便座の上に蹲踞をするという手段を、ひそかに用いていたのであった。

45年間信じ続けて来た宗旨を変えさせた「ある所有物」

さて、あろうことか3ヵ所のトイレがすべて洋式であると知って、私は激怒した。

ともかく1ヵ所は和式に変えよと要求したのであるが、それはたいそう手間と費用のかかることであった。

そうこう揉めるうちにも、便意は容赦なく兆してくる。いたしかたなく、当面はホテル式に、タンクを抱いて前向き蹲踞の姿勢を取るほかはなかった。

ところが、バブル系のトイレは私にその秘法さえも許してはくれなかった。TOTOの誇る世界最新鋭の「乾燥機付きウォシュレット」が採用されていたのである。

前向き蹲踞の脱糞をおえ、不用意にボタンを押したところ、突如として噴出した水が「ムーブ機能」とともに暴れ回り、トイレは猖獗(しょうけつ)をきわめた。

もちろん、そういう機能を知らなかったわけではない。しかし、たまのホテル住まいならいざ知らず、毎朝このようなキワモノと付き合わされるのではたまったものではない、と私は深く懊悩(おうのう)した。

論争になった。私は、日本の文化と伝統を心より愛し、シンプルかつプリミティヴな和式きんかくしこそ最善最高の便器であると主張した。

「それはちがいます」と、家人は冷ややかに否定した。何でも私の便法は、歴史に対する反動的行為に過ぎぬのだそうだ。

私は、信じて古(いにしえ)を好むタイプの人間ではあるが、案外と素直である。編集者の意見もよく聞く。

そこで、ゆるがせにできぬ文章にバッサリと赤ペンを入れられた感じで、ともかく考えてみることにした。

数日間、新たなる宗教の教義を覗き見るように、「ウォシュレット便座」を試してみたのである。

さまざまの利点に気付いた。

まず、トイレの前にパンツの姿脱ぎをしなくて良い。

気合いは入らぬが、そのぶんジックリと構えることができ、足がシビれることもない。

そして、これが最大の長所だと思ったのであるが、用便後の洗浄と乾燥は、すこぶる痔に良い。

筆は滑りに滑り、ヤバいと思いつつ露悪する。実は私、痔主である。売れぬ小説を文机(ふづくえ)で描き続けた結果、大痔主になった。しかし医者に通わねばならぬというほどではなく、仕事の無理が重なると発作的に痔主となるのである。

痔は痛い。発作中、便法により一気呵成に脱糞するときなど、「エイヤッ!」ではなく、「キエェ〜〜イ!」というような悲鳴を上げるほどである。しかるのち、ペーパーで拭うときの痛さと言ったら、今このとき地球が破滅すれば良いと思うほどである。

便器の実験中、折しも痔が出ていたことが、私の改宗を決定づけた。

かつて私は本稿において、「便座について」を書き、洋式便座をあしざまに罵っている。同意見の読者から、ファン・レターまでいただいた。

45年間も信じ続けてきた宗旨を今さら改めることは、もとより本意ではない。痔のせいにするのは、卑怯であると思う。

しかし、歴史に対する反動的行為とまで言われ、出先においてもその現実を確認せざるを得ぬ今日、私は耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、影絵を踏む。

こうして私は、45年間、信じて疑わなかった宗旨をついに改めた。

世界の一部が、明らかに変わった。

どう変わったのかと言うと、またまた筆の滑りにまかせて露悪するが、おごそかに聞いていただきたい。

寸暇(すんか)も惜しみ、トイレの中まで仕事を持ちこむようになったのである。洋式便座は仕事もできる。

この原稿、実はトイレで書きおえた。

(初出/週刊現代1997年3月8日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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