8・22沖縄学童疎開の悲劇! 対馬丸撃沈と上皇夫妻80年の鎮魂

対馬丸(『日本郵船株式会社五十年史』より)

今年の8月22日は、沖縄県内の疎開児童らを乗せた学童疎開船「対馬丸」が沈没し、800人近い尊い学童の命が奪われた日から80年となる。沖縄に心を寄せ続けた上皇夫妻(上皇さまと上皇后美智子さま)が退位後の今も、対馬丸の学童た…

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今年の8月22日は、沖縄県内の疎開児童らを乗せた学童疎開船「対馬丸」が沈没し、800人近い尊い学童の命が奪われた日から80年となる。沖縄に心を寄せ続けた上皇夫妻(上皇さまと上皇后美智子さま)が退位後の今も、対馬丸の学童たちの命日に黙とうを捧げる。

「対馬丸」への特別な思いは、アジア太平洋戦争の戦況悪化に伴い、対馬丸の学童とほぼ同じ10歳前後で共に疎開をした上皇と上皇后の体験とも重なる。そして、奥日光から帰京した昭和20(1945)年11月7日、原宿駅に降り立った上皇が見た東京の光景は、一面に広がる焼け野原だった。上皇夫妻の疎開体験は、平成の象徴天皇像形成にどのような影響をもたらしたのであろうか。元東京新聞宮内庁担当記者・吉原康和氏が、取材メモと独自の視点でつづる。

対馬丸の沈没

「対馬丸」は昭和19年8月22日、沖縄県内の国民学校児童らを乗せて長崎県に向かう途中、米潜水艦「ボーフィン号」の魚雷を受けて沈没。学童約780人を含む1500人近くが死亡した。

魚雷を発射した米潜水艦ボーフィン号が沈没の寸前にとらえた対馬丸。1944年8月22日午後10時23分ごろに沈没した(那覇市歴史博物館提供)

同年7月にサイパンが陥落し、「次の戦場は沖縄」と見た政府は、沖縄県下から学童を本土や台湾などへ疎開させる計画を立てたが、沖縄周辺の海域はすでに米軍の潜水艦が跋扈(ばっこ)する「魔の海」とされ、多くの親たちは子どもの疎開に懸念を抱いた。

しかし、「軍艦で行くから安心だ」などと半ば強制的に学童疎開が実施された。8月21日の夕方に那覇港を出港した対馬丸は、翌22日午後10時すぎ、鹿児島県悪石島(あくせきじま)付近で撃沈させられた。「軍艦」といわれた船は、実は貨物船であり、護衛艦2隻も遭難者を救助もせずに逃げてしまったという生存者の証言がある。

船内は、大混乱に陥った。

「助けてー!」「おとうさーん!」「おかあさーん!」と悲鳴や泣き叫ぶ声があがっていた」
(上原清著『対馬丸沈む』より)

軍部は撃沈の事実をひた隠した

また、対馬丸遭難は、全国で行われた学童疎開への影響を恐れた軍の機密とされ、厳しいかん口令が敷かれた。生存者が少ないことなどから、被害の全容は今もってはっきりとしていないが、対馬丸が再び注目を集めたのは、平成9(1997)年12月、悪石島近海で、沈没した「対馬丸」の船体が53年ぶりに確認された時のことである。遺族は直ちに引き揚げを求めたが、沈んでいたのは海底870mの深海であり、引き揚げは困難として当時は断念された。

宮崎県の広原国民学校に疎開した沖縄県の泊小学校の学童ら。3年生から6年生までの児童がまじっている(那覇市歴史博物館提供)

「対馬丸の船体発見」のニュースに接した上皇は、「疎開児の命いだきて沈みたる船深海に見い出されけり」、という御製を詠んだ。「命いだきて」に疎開児らの多くの命を抱きかかえるようにして対馬丸が沈んだとの祈りにも似た願いが込められたとみられるこの御製は、平成16年8月に開設した対馬丸記念館にも掲げられた。

10年後の平成26年6月、上皇后と一緒に記念館を訪問した上皇は、遺族らと懇談した。この際、「護衛艦は救助できなかったのですか」と尋ねるなど、遺族のわだかまりに気遣いをみせた。上皇后も、この時のことを「学童疎開船対馬丸」と題して、「我もまた近き齢にありしかば沁みて悲しく対馬丸を思ふ」という御歌を詠んだ。

対馬丸記念館内に展示されている犠牲者の遺影写真(対馬丸記念会提供)。対馬丸記念館は沖縄県那覇市若狭にある

皇太子時代の記者会見で、上皇は、日本人として忘れてならない4つの日に終戦記念日(8月15日)、広島と長崎に原爆が投下された8月6日と9日と並んで、沖縄戦が終結した日(6月23日)を挙げた。

当時、左派の知識人でも6月23日を重要な日と感じる人はほとんどいなかったが、夫妻は皇太子時代から、先の大戦で唯一、地上戦を繰り広げ、県民の4分の1が犠牲となったとされる沖縄県民の苦難に寄り添い続けてきた。

沖縄訪問は皇太子時代を含めて11回に上るが、「対馬丸」が撃沈された8月22日に、毎年2人で黙とうをされていることを知る人は、当時も今も少なかった。

夫妻が皇太子時代から対馬丸に大きな関心を寄せられてきたのも、犠牲になった学童たちとほぼ同じ年齢だったという自らの疎開体験と無関係ではない。

明仁皇太子が沼津御用邸(静岡県沼津市)近くに学童疎開したのは、10歳だった昭和19(1944)年5月。しかし、7月にサイパン島が陥落すると、相模湾に米潜水艦が出現するようになり、この年の7月、明仁皇太子は密かに日光の田母沢御用邸に移った。

初等科5年の同級生たちは金谷ホテルを宿舎とし、御用邸に隣接する東京帝国大学付属植物園の建物を教室として授業を受けることになるが、これも長く続かなった。

植物園の教室には暖房がなく、教室は御用邸の一室に移ったが、昭和20年になると、戦局は日増しに悪化し、米軍の空襲は地方都市にも及び、7月12日には日光からほど近い宇都宮も空襲を受けた。皇太子と同級生たちはついに、奥日光の南間ホテルに移動し、そこで終戦を迎えることになる。

終戦直前の昭仁皇太子の様子を伝える昭和20年8月11日付の毎日新聞の記事

一方、皇太子が沼津で疎開生活を送っていた6月、当時9歳で雙葉(ふたば)第一小学校4年生だった正田美智子は、母親と妹ら共に神奈川県藤沢市鵠沼に疎開し、学校も雙葉と同じカトリック系の乃木高等女学校の付属小学校に転校した。翌年の3月10日、東京は大空襲の被害を受け、父の実家のある群馬県館林へ再疎開し、さらに6月、正田家の別荘のあった長野県軽井沢町に移り、ここで終戦を迎えた。

父・昭和天皇と再会した3日間

疎開生活で明仁皇太子がこれまでになかった初めての経験は、食糧不足によるひもじさと、両親と長期にわたって会えぬ寂しさだったであろう。皇太子の級友によると、食糧事情の悪化は疎開先も例外ではなく、皇太子も食糧の足しになる野草の葉や木の実を求めて山野を練り歩き、生まれて初めてのひもじさも味わったが、最もつらかったのは、立場上かなわぬ両親との面会だった。

「子どもたちにとって、最高の喜びは父母の訪問である。何か月かに一遍、決められた面会日に、東京から泊りがけでやってくる。(略)貴重なチョコレートや饅頭の味が忘れられない。この母に会える瞬間の歓喜は生涯でも、最大級の嬉しさだったような気がする。しかし、同級生のなかで唯一人、この喜びを味わえない子がいた。御用邸のなかの皇太子殿下である」

級友の一人、明石元紹は『今上陛下つくらざる尊厳』(講談社)の中で、こう述懐しているが、皇太子と両親との再会は、奥日光から帰京した翌日の11月8日からわずか3日間だけだったが、皇居で両親との水入らずの時間を過ごす形で実現した。皇居内の畑で香淳皇后と皇太子、義宮(常陸宮)の3人は芋堀りを楽しんだ。

明石は「結婚して実現させた、美智子妃殿下との家庭づくりの信念も、この3日間から芽生えたのではないか」(同)と推測している。

美智子皇太子妃との結婚で、古くからの皇室のしきたりであった乳母(めのと)制度を廃止し、3人の子どもたちをお手元で育てる家庭づくりである。

また、帰京当日、原宿の皇族専用のプラットホームから久しぶりに見た東京の光景は、皇太子の脳裏に強烈な印象を刻み込んだ。

「東京に戻って来たとき、まず、びっくりしたのは、何もないということですね。建物が全然ない。原宿の駅に、周りにも何もなかった。これがいちばん印象に残っています」

3・11と戦争体験

昭和57年の記者会見で、明仁皇太子は、帰京した日に見た東京の印象を述べているが、平成23(2011)年、東日本大震災で被災地を見舞われた際、津波にさらわれた町に立ち、上皇后と一緒に頭を下げて祈りをささげた国土は、「終戦直後に見た東京の光景の再現のように感じたのではないか」と明石は語る。

陛下は、生前退位の「お気持ち」をビデオメッセージで伝えた(2016年8月8日)写真提供:宮内庁

東日本大震災と福島第二原発事故の発生直後、東京電力による計画停電の実施に合わせて、天皇一家のお住まいのある皇居・御所も自主停電を行った。皇居は計画停電の対象外のエリアだったが、「国民と困難を分かち合いたい」との上皇夫妻の意向を踏まえて御所での電気の使用を控え、ろうそくや懐中電灯を使って夕食を取られた。

当時、宮内庁参与を務めた三谷太一郎は「陛下の提案で、御所での参与会議もろうそくの火をともす暗がかりの中で行った。戦時中に疎開を体験した両陛下にとっては、ごく当然という振る舞いで、むしろ、国難ともいえるあの大震災と原発事故を、『第二の敗戦』と感じて象徴としての対応に腐心されていたようでした」と話してくれたことがあった。

第二次世界大戦の終結後、戦後復興と戦争で疲弊した国民を激励するため、昭和天皇は昭和 21年から8年半かけて、全国各地(沖縄県を除く)を巡る「戦後巡行」を行ったように、上皇夫妻は、東日本大震災後に東北の被災地などを7週連続で訪問し、被災者を励まし続けた。

1年半に及ぶ疎開生活と帰京したときに見た東京の光景。結婚後、共に携えて象徴天皇像を模索する旅路の原点が、そこにあったのかもしれない。

吉原康和(よしはら・やすかず)
ジャーナリスト、元東京新聞編集委員。1957年、茨城県生まれ。立命館大学卒。中日新聞社(東京新聞)に入社し、東京社会部で、警視庁、警察庁、宮内庁などを担当。主に事件報道や皇室取材などに携わり、特別報道部(特報部)デスク、水戸、横浜両支局長、写真部長を歴任した。2015年から22年まで編集委員を務め、宮内庁担当は、平成から令和の代替わりの期間を中心に通算8年。主な著書に『歴史を拓いた明治のドレス』(GB)、『令和の代替わりー変わる皇室、変わらぬ伝統』(山川出版)、『靖国神社と幕末維新の祭神たちー明治国家の英霊創出―』(吉川弘文館)など多数。

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