おとなの週末的クルマ考

バブルに登場、ユーノスコスモは何もかもが破天荒 みんなが啞然とした日本の超名車

ユーノスコスモの美しさは別格で、日本車でここまでエレガントなクルマはない!!

日本車史上最も美しいクーペの一台に挙げられるユーノスコスモですが、デザインだけでなく、メカニズム、装備なども非常にチャレンジングでした!!

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今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第35回目に取り上げるのは、バブル時代に登場し、わずか5年で消滅したマツダのフラッグシップパーソナルクーペのユーノスコスモだ。

1989年に日本車が大きく活気づいた

日本のビンテージイヤーと言われているのは1989年。日本のクルマ史において非常に重要な意味を持つ年だ。ライトウェイトオープンスポーツカーのユーノスロードスター、16年ぶりに復活を遂げた日産スカイラインGT-R(R32型)、280ps規制のきっかけとなった日産フェアレディZ、さらには高級サルーンという高みを目指した初代トヨタセルシオ、日産インフィニティQ45までも登場。このほかにもまだまだ魅力的なモデルが登場しているわけだが、前述の5車に共通しているのは、日本車が大きく飛躍するきっかけを作り、世界的にも影響を与えたモデルということ。

超絶な美しさを纏ったユーノスコスモ

NSXの登場に匹敵するインパクト

ユーノスコスモがデビューしたのはその翌年の1990年。この年も話題のクルマがいっぱいで、スカイラインGT-RにNISMOが追加されたり、9月には大本命のホンダNSX、10月に三菱GTOとスポーツカーが増殖。スポーツカー以外でも跳ね上げ式ドアが鮮烈だったトヨタセラ、1BOXカーの革命児のトヨタエスティマなど、1989年に負けず劣らず話題のクルマが登場した。

ユーノスコスモはこの年の4月デビューしたが、そのインパクトは強烈だった。

全体のラインは繊細だが、太いリアピラーが力強さを加えている

5チャンネル制でマツダが大ピンチ

ユーノスコスモの衝撃を述べる前にユーノスについて触れておく。マツダは1989年から販売チャンネルを既存のマツダ店、マツダオート店、オートラマ店に加えてユーノス店とオートザム店の2系列を加え、5チャンネル制を導入。ちなみに5チャンネル制の導入と同時に、マツダオート店はアンフィニ店と名称変更され、RX-7はサバンナの名を捨てアンフィニRX-7となったわけだ。

RX-7(FD3S)はアンフィニRX-7として販売された

ユーノスはマツダ車においてプレミアム性を訴求したブランドとして位置付けられていて、ロードスターが第1弾で、 第2弾はユーノス100(ファミリアアスティナ)、 コスモは第3弾だった。

トヨタ、日産と同じ5チャンネル制としたマツダだが、販売規模から考えても無謀以外何物でもなかった。結局失敗に終わり、1996年に終焉を迎えた。この5チャンネル制こそ1990年代のマツダの経営危機の大きな要因だった。

ユーノスロードスターはユーノスブランドの第1弾

コスモは特別なクルマ

それではユーノスコスモに話を戻す。

広島県出身の筆者にとって、子どもの頃からコスモは特別なクルマだった。コスモスポーツに関しては、高校時代に街中で2~3回見た程度。『帰ってきたウルトラマン』のマットビハイクルのベースとなったということは知っていたが、特に思い入れもない。

コスモスポーツは1967年にデビューして1972年まで販売された世界初のロータリー搭載車

個人的にコスモが刺さったのは、1975年にデビューした2代目のコスモAP。ホントにカッコよかった。当時筆者は小学生だったが、スタイリッシュな2ドアロータリークーペは街中に溢れかえっていた。近所のお兄さん、学校の先生も赤いコスモAPに乗っていた。同じコスモでもLはレザートップ装着で超シブかったけどあまり見かけなかった。

押し出しの強いフロントマスク、スタイリッシュなリアなど若者から大人気だったコスモAP

そのAPの栄光が嘘のように3代目で凋落。初期のリトラクタブルヘッドライト仕様は百歩譲って許そう。しかし、固定ヘッドライトにビッグマイチェンしたコスモは、かつてのスペシャルティ感は皆無で、手先の豪華さが与えられただけで幻滅。正直この時点で「コスモは終わった」も同然だった。

リトラクタブルヘッドライトが与えられながらもイマイチカッコよくない3代目

色気があってエレガントな佇まい

マツダ好きが終わったと感じるくらいだから、よっぽどのクルマ好きじゃない限り、コスモの存在なんてほぼノーマーク。「コスモなんてクルマもあったね」程度だったはずだ。

それが、新型が出てビックリ仰天!! ユーノスブランドのクルマとして生まれ変わったユーノスコスモの衝撃たるや物凄いものがあった。

寸部の隙もないユーノスコスモのデザインは圧巻だ

とにかく美しかった。カッコいいのではなく美しいのだ。ロングノーズはどことなくクラシカルな雰囲気を漂わせているが、回顧主義ではなく新しい。当時もカッコいいクルマはいっぱいあったし、エレガントな佇まいのクルマもあった。しかし、ユーノスコスモのエクステリアデザインは艶っぽくて、色香を感じさせるエロさがあるのに、エレガントで気品さえ感じさせた。1990年にそんなクーペが生まれたことが凄いことだと思う。

ユーノスコスモのデザインを見ると、フロントマスク、リアコンビは特に斬新なデザインというわけでもない。どちらかといえばオーソドックスの部類なのかもしれないが、プロポーションが美しく、全身からオーラを発している。

ユーノスコスモが最も美しく見えるのは真横アングル

鬼才の小泉氏がデザイン

ボディサイズは全長4815×全幅1795×全高1305mm。伸びやかで当時の日本車としては全幅はかなりワイド。それに対し全高は1305mmのローフォルムを実現。これが黄金比かと思わせるほど完璧なプロポーション。

デザインは好みがわかれるが、当時ユーノスコスモを見てカッコ悪いと思った人はいないんじゃないだろうか。個人的にはこれまでの日本車の歴史において、ユーノスコスモのエロさを超えるのは、レクサスLC以外にないと思っている。LCの日本発売開始が2017年だから、筆者のなかでは30年近く日本車のデザインの頂点に君臨したとことになる。

ユーノスコスモの妖艶さに勝てるのはレクサスLCしかない!!

ユーノスコスモをデザインしたのはマツダのデザイン部の小泉巌(こいずみ・いわお)氏。今も昔もマツダには個性的なデザイナーが多数いるが、これまた個人的な見解で恐縮だが、マツダのデザイナーで小泉氏と2代目のFC3S、3代目のFD3Sと2代にわたりRX-7をデザインした佐藤洋一氏が両巨頭だと思っている。

ちなみに小泉氏は、初代フェスティバ、ファミリアアスティナ、ユーノス500、ユーノス800、初代CX-5などなど、数々のマツダの名車のデザインを手掛けた。2020年にマツダを退社し、その後独立されたようだ。

ファミリアアスティナはユーノス100として販売された

市販車として世界初の3ローターエンジン

ユーノスコスモの衝撃はデザインだけではない。そのパワーユニットこそ、このクルマの真骨頂なのだ。コスモと言えば初代、2代目、3代目ともロータリーエンジンを搭載。初代のコスモスポーツはロータリーを搭載した世界初の量産車だし、2代目のコスモAPはその名のとおり51年排ガス規制に適合させた、APはアンチポリューションの略で、低公害、低燃費を意味していた。3代目はルーチェと並び世界初のロータリーターボを搭載。地味ながらやることはやっていたのだ。

それに対し、ユーノスコスモはRX-7(FC3S)と同じ2ローターターボ(13B)と、世界初の3ローター(20B)を搭載。1ローターあたりの最大排気量×ローター数が排気量となるため、13Bが654cc×2(1308cc)、20Bが654cc×3(1962cc)。そう、エンジン型式の前の数字は排気量を示している。

世界初にして最後の3ローターエンジン(20B)

300psオーバーで登場していれば運命は変わったかも

注目の3ローターの20Bは、量産車としては世界初となる(マツダ談)シーケンシャルターボで、280ps/41.0kgmをマーク。シーケンシャルターボとは、大小2つのターボを装着するツインターボで、低回転域を小さなターボが担当し、高回転域になると大きなターボに切り替わる。これにより低回転域でのレスポンスがよくなる。

見た目のエレガントさとは対照的な豪快な加速も大きな魅力

1989年にフェアレディZ(Z32型)が280psで登場。これにより『メーカー自主規制』という名のお上(当時の運輸省で現国交省)の強制により日本車のパワーの上限は280psとなってしまった。実際に20Bは300psオーバーも充分に可能だったが、泣く泣く280psに足並みを揃えたとう経緯がある。

この時に300psオーバーで登場していれば、さらなるインパクトになっていたのは間違いない。一方最大トルクには規制がなかったため、41.0kgmをマーク。これは当時、4L、V8のセルシオの36.0kgm、4.5L、V8のインフィニティQ45の40.8kgmを凌駕する日本車最高スペックとしたのはマツダの意地なのだろう。

これがローターでハウジング内で回転運動する

3ローターの何がそんなに凄いのか?

3ローターといってもローターの数が2個から3個に増えただけで、何がそんなに凄いのか? と感じる人も多いだろう。実は筆者も当時3ローターの凄さはわかっていなかった。しかし、ロータリーエンジンはレシプロエンジンと違い、直4エンジンにシリンダーを2つ増やせば直6になるのとは違う。

最大のネックとなっていたのが、ロータリーエンジンの出力軸で、レシプロエンジンのクランクシャフトに匹敵するエキセントリックシャフトの強度。エキセントリックシャフトは、偏心しているため1本物の鋼材を削り出して作ることができず、寄木細工のように製作していたという。2ローターに比べてエキセントリックシャフトが長くなるため、その強度の確保は困難を極めた。それをユーノスコスモで実現したのだ。ロータリーの歴史はマツダの歴史なのだが、3ローターエンジンはユーノスコスモが世界初にして最後。動力源としてのロータリーエンジンではこの先も出てこないだろう。

一番手前がエキセントリックシャフトでその強度を確保するのが非常に難しかった

20Bは珠玉のフィーリング

筆者はユーノスコスモがデビューして約1カ月後に、その後長きにわたり編集に携わることになる自動車雑誌の『ベストカー』でアルバイトを始めた。話題のクルマだったため、誌面にたびたび登場した関係でユーノスコスモを運転する機会に恵まれた。

実際に美しいエクステリアに心を奪われ、後述する超絶豪華なインテリアに感服し、強烈な加速感に打ちのめされた。

41.0kgmの分厚いトルクによる加速は気持ちよかった!!

ユーノスコスモの13Bエンジンは、V12エンジンに匹敵する低振動でスムーズさをセールスポイントとしていた。筆者はV12を経験することなくユーノスコスモの3ローターをドライブしたが、極端なことを言えば日本車で最も当時スムーズと言われていたセルシオのV8よりもさらに滑らかったのを今でも思い出す。ロータリーの回転フィールは、モーターのそれに例えられるが、アクセルを踏むとストレスなく一瞬のうちにレッドゾーンまで回るのはロータリーならではの気持ちよさだ。この珠玉のユニットを体験できたことはとてもラッキーなことだと思う。

その一方で、最大のネックとなったのは燃費。当時は大げさにユーノスコスモの燃費は「1km/Lを切ることもある」と揶揄されることもあるが、名誉のために行っておくとそこまで酷くはなかった。と言っても、普通に街中を走って5km/L前後でガンガンと走れば3km/L前後となるため、燃費が劣悪だったのは噓ではない。

赤のボディカラーはスポーティで人気だった

包み込まれるような豪華なインテリア

マツダは1988年に初代カリーナEDの対抗馬としてペルソナを登場させた。マツダはそのペルソナで『インテリアイズム』を掲げ、超絶にこだわったインテリアを実現。その『インテリアイズム』の集大成がユーノスコスモだ。

34年前にデビューしたクルマのインパネとは思えない先進性がある

デザイン、贅沢な本杢を使うなど素材にこだわった贅沢な空間を好演出。内装色はシックなブラックもあったが、イチオシは当時の日本車にはほとんどなかったタン革の内装。タン革の内装と言えばフェラーリの専売特許のようになっていたが、そのお株を奪うほどの出来栄え。リアは完全セパレートの2人掛け仕様でエクステリアに負けず劣らず、妖艶な雰囲気を漂わせていた。

4座が包み込まれるようにデザインされたインテリア。当時の日本車では珍しいタン革が素敵

世界初のGPSカーナビも圧巻

デザインよし、インテリアよし、そしてエンジンも独創的かつ画期的。これだけで終わらないのがユーノスコスモの凄いところで、機能面でもチャレンジングだった。

その筆頭が、自動車メーカーの純正品として世界初のGPSカーナビの搭載。アフターではパイオニアが『道は星に聞け』と謳い、世界初のGPSカーナビを販売していたが、CCS(カー・コミュニケーション・システム)には驚かされた。

自動車メーカーの純正品として世界初のGPSナビとなったCCS

このCCSは20B搭載のトップグレードに標準装着されていて、その車両価格は当時としてはぶっ飛びの530万円!! CCSの装着されないEグレードに比べて65万円高の超がつくほどの贅沢品だった。

そしてもうひとつ画期的だったのが、今では当たり前となっている液晶モニターのタッチパネルを採用していたこと。30年近く前のことだと思うとその先見性、マツダの技術力には敬服するばかり。

惚れ惚れするくらいまとまっているインテリア

日本人が着いていけなかった!?

バブル期に登場し、そのインパクトは絶大だったユーノスコスモだが、残念ながら販売面では苦戦を強いられた。最大の要因はバブルの崩壊によって日本の景気が一気に後退したことにある。一部の熱狂的なファンを生み、今でも愛し続けている人たちはいる。しかし、チャレンジングで破天荒と言えるキャラクターを日本人が着いていけなかったのも事実。そう考えると、バルブが崩壊していなくても、変わらなかったのかもしれない。

ただ、こんな破天荒なまでの魅力を持ったユーノスコスモをマツダが市販してくれたことに敬意を表したい。

スラッと伸びた脚が出てくることを予感させるほど妖艶なクルマ

【マツダユーノスコスモ タイプE  CCS主要諸元】
全長4815×全幅1795×全高1305mm
ホイールベース:2750mm
車両重量:1640kg
エンジン:654cc×3、直列3ローターツインターボ
最高出力:280ps/6500rpm
最大トルク:41.0kgm/3000rpm
価格:530万円(4AT)

ユーノスコスモはボディカラーによってイメージは大きく違う

【豆知識】
ユーノスコスモをデザインした小泉巌氏は、数多くのマツダ車をデザインしてきた。マツダの社員デザイナーだが、その奇才ぶりは群を抜いていたように思う。初代フェスティバ、ファミリアアスティナ、ユーノス500、ユーノス800、CX-7、ビアンテなどの市販モデルのほかにショーモデルも手掛けている。その代表作にはHR-X(東京モーターショー1991)、RX-01(東京モーターショー1995)などがある。

東京モーターショー1995に出展されたロータリースポーツのRX-01

市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。

写真/MAZDA、ベストカー

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