だいたいなんでも1番はえらいと思ってきた。これがいちばんおいしいと言われれば、食べる前からそうなのかと納得するし、あの人はなにかの1番だったと教えられると、どこか値打ちがあるように感じてしまう。クラスでいちばん足が…
だいたいなんでも1番はえらいと思ってきた。これがいちばんおいしいと言われれば、食べる前からそうなのかと納得するし、あの人はなにかの1番だったと教えられると、どこか値打ちがあるように感じてしまう。クラスでいちばん足が速い人が受ける栄光は、クラスで2番目に足が速かった人のそれとは段違いだっただろう。勉強やテストの順位だって1位をとったという事実は、本人の中で自信となり、その後の努力をずいぶんと下支えするにちがいない。どっちの1番にも無縁だった私だからこそ、1番の価値がよくわかる。
■買い物では「1番」でないと意味がない
見方を変えれば1番はけっこう残酷だ。往々にして1番はリターンを総取りする。選挙をはじめ、人をひとり選ぶ局面なんかは、1番以外は意味なしという取捨選択が行われる。1番が金、その他が銀・銅というのも、最高を讃えるための偏りが激しいのではないかとすら思えてくる。2位じゃダメなんですかと言いたくなるほどに、1位じゃないとダメな場合が、私たちの社会にはたくさんあるのだろう。そういう私たちだって、たいていのランキングは1位しか覚えないわけで、認識してもらえない2位以下はランク外どころか、つまりは「無」である。
そもそも買い物という行為が1番総取りシステムなのだろう。検討段階では候補がいくらあろうとも、選ばれるのはひとつだけ。お客さんが最高だと判断した1番のみが、お買い上げの光栄にあずかることができるのだ。行き先がひとつにしぼれないから旅行の日程を倍にしたとか、めんどうだからクルマを2台買ったとか、よくわからないからドラム式と縦型の洗濯機両方を買ったなんて人はいないと思う。
おためしに2番や3番もいっしょに買ってみようかと思える手軽な消費をのぞけば、ほとんどの買い物は2位じゃダメなんである。しかも手軽な消費でさえ、さいきんはシビアな財布事情にさらされ、1位総取りの過酷な世界に突入しているのではないか。
とにかく作って売る側にとっては、1位じゃないとダメなのだ。だから私も、やたら1番を謳う広告をつくってきた。1番には説得力があり、1番しかお客さんは覚えてられなくて、最後は1番にしかお金を払ってもらえないのならば、こちらはどうにか1番を捻出するしかない。満足度No.1だとか売上No.1だとか、あるいはどこかのだれかが選ぶランキングNo.1といった、いったいその1番は何番なんだと冷静になるくらいには、ちまたの広告には1番が氾濫している。
私も省エネだったり、静かさだったり、明るさだったり、計測できるモノから、リラックスや美しさ、時間のかからなさといった主観に依存するようなモノまで、あらゆる基準で1番を主張する売り文句を考えてきた。もとよりライバルメーカーがひしめき、比較が激しい家電業界である。私もなかば強迫観念のように広告は1番を自称せねばと考えていたと思う。
とはいえ広告における1番の表現は、法律によってその使い方をきちんと規制されている。なぜなら1番や最高をアピールする表現は、その言葉の印象から実際の機能や品質より優れたモノだと、お客さんに誤解を与える可能性があるからだ。だから広告において1番を表現する際には、いつの時点の話であるか、どの範囲における話なのか、なにを根拠にしたのかを示さなければいけない。ましてや1番が目まぐるしく更新される業界である。だから1番は時限的にしか使えない言葉なのだった。
■冷蔵庫の野菜室をはじめて作ったのも、電子レンジがチンというようになったのも、携帯電話にカメラを載せたのも
1番と似たような位置付けの言葉に、「世界初」あるいは「日本初」がある。こちらは技術力を旨とする企業にとっては、1番よりテンションが上がる言葉だ。初だといえる製品や機能が開発できると、とたんに会社の鼻息は荒くなる。私も世界初や日本初を声高々と宣言する宣伝を作らされたものだった。こちらはNo.1に比べて、商売にどれほど影響したかは私もよくわからない。しかしそれを宣言するメーカーへの憧憬というか信頼というか、企業イメージと呼ばれるものに対するポジティブな貢献は着実にあったと思う。
先日仕事しながらふと、そういえば最近「1番」や「世界初」を言えと迫られることも、言わねばと使命感を感じることもなくなったなと思って、ツイート履歴を検索して愕然とした。まったくそれらの語を使って、宣伝をしていなかったのだ。世界初など、7年以上まで遡らないと私はその語を使いもしていなかった。
理由はいくつか思い当たる。1番の効能が薄れたのだ。いま私たちが日常でふつうに受け入れているモノやサービスは、必ずしも1番乗りした企業によってもたらされたものではない。どちらかというと2番や3番目にやってきた企業が覇権を握る様子を私たちは見てきたのではないか。いまは、はじめにやる者より、うまくやる者が賞賛される世界になったのかもしれない。
あるいはライバルが早々と存在しなくなるような速度にまで、製造や商売が加速してしまった感覚もある。切磋琢磨しながら1番を更新しあうような競争相手がいなければ、もはやNo.1にさほど意味はなくなるだろう。現に家電においては、かつてに比べて驚くほどライバルが少なくなった。
1番や世界初という事実がなくなったのではない。いまも新製品を発売するたびに、細かいレベルで1番が生み出されていることを私は知っている。ただ、それを謳う必要性を世間から要請されなくなったのだ。そこに一抹のさびしさを感じるのは、身勝手なことだろうか。
1番や世界初は、ある時点でだけ胸を張れる時限的な表現だ。しかし1番や世界初であった事実は時間を経ても変わることはない。冷蔵庫の野菜室をはじめて作ったのも、電子レンジがチンというようになったのも、携帯電話にカメラを載せたのも、ぜんぶ同じ会社なのだ。そこに現在の私はまだ、胸を張っている。
さまざまなメーカーの切磋琢磨と、かつての1番や初めてを積み重ねながら、家電は作られてきた。そうやってあの時の1番乗りやあの年の世界初は、記録と記憶と、なにかの機能に残り続けるのだろう。それがたとえ後ろ向きな姿勢だとしても、私はそこに一抹の希望を感じる。あなたが毎日使うその家電も、「かつての1番」の結晶なのだ。
文・山本隆博(シャープ公式Twitter(X)運用者)
テレビCMなどのマス広告を担当後、流れ流れてSNSへ。ときにゆるいと称されるツイートで、企業コミュニケーションと広告の新しいあり方を模索している。2018年東京コピーライターズクラブ新人賞、2021ACCブロンズ。2019年には『フォーブスジャパン』によるトップインフルエンサー50人に選ばれたことも。近著『スマホ片手に、しんどい夜に。』(講談社ビーシー)
まんが・松井雪子
漫画家、小説家。『スピカにおまかせ』(角川書店)、『家庭科のじかん』(祥伝社)、『犬と遊ぼ!』(講談社)、『イエロー』(講談社)、『肉と衣のあいだに神は宿る』(文藝春秋)、『ベストカー』(講談社ビーシー)にて「松井くるまりこ」名義で4コママンガ連載中