午前2時すぎまで「籠城」 加えて開幕から一度も勝率5割に届かない体たらくぶりに、甲子園球場ではファンが応援を拒否する事態に。そんな四面楚歌で迎えたシーズン終盤の9月12日、球団から解任が通告される。 しかし、オーナーから…
画像ギャラリー今オフのプロ野球は、監督交代ラッシュとなった。セ・リーグは阪神、中日、パ・リーグは楽天、オリックス、西武と5球団の指揮官がチームを去る。チームの再起を願い自ら身を引く「勇退」があれば、志半ばでの不本意な「解任」もある。これまでの監督交代劇から、指揮官の引き際について見ていく。
引き際をわきまえている名将・中島聡
2024年10月6日、雨のそぼ降る仙台・楽天モバイルパーク。シーズン最終戦を降雨コールドゲームで終えたオリックス・中嶋聡監督は試合後、いつものように淡々とした調子で口を開いた。
「3連覇したチームとは思えないほど、優勝争いに絡めずに終わり、辛かった。うまくいかず悔しかった。僕は責任という言葉をよく使っていましたが、『こっちに責任があるから思い切ってやってくれ』と。それを考えたらここまでチームが落ちるということに関して責任は取りたいと思いますね。今年で辞任します」(デイリースポーツ2024年10月6日)
長年、Bクラスが定位置だったオリックスに「黄金時代」をもたらした指揮官の突然の退任表明だった。中嶋監督は2020年のシーズン途中から監督代行としてチームの指揮をとり、翌2021年、正式に監督に就任すると2年連続で最下位に沈んでいたチームを立て直しリーグ3連覇、2022年には日本一へと導いた。
今季は主力選手に故障が相次ぎ、就任以来初めてのBクラスとなる5位に終わったものの、これまでの実績を評価し球団は来季の監督続投要請をしていた。しかし、中嶋監督は「今まで通りやったとしても人って慣れるじゃないですか。慣れの方が今年は多く、より強く出てしまった」、「もう一回やり返したいという気持ちはありましたけど、やり返すのなら新しい形の方がいい」(スポーツ報知2024年10月6日)と辞任する道を選んだ。
4位で身を引く
過去に中嶋監督のように、球団に慰留されながらも辞任した指揮官に、元ソフトバンクの工藤公康監督がいる。工藤氏は2015年、前年日本一となりながら家庭の事情により退任することになった秋山幸二監督の後を受けソフトバンクの監督に就任した。
もともと戦力の揃った強豪チームではあったが、初年度にリーグ優勝を果たすと、日本シリーズでもヤクルトを破り日本一に。翌2016年はリーグ2位に終わったものの、選手の自主性を重んじ、個性を生かすマネジメント術が嵌り、千賀滉大(現ニューヨーク・メッツ)を堂々のエースに育て上げた他、甲斐拓也や周東佑京といった育成出身選手の才能を次々と見出し、2017年から4年連続日本一の常勝チームを作り上げた。
しかし2021年に就任後初めてクライマックスシリーズ進出を逃し4位になると、成績低迷の責任を負い自ら身を引いた。この時のことを後年、工藤氏は次のように話している。
「しがみついてでもやりたい人もいる」
「監督というのは大変な仕事ですけど、そこそこ給料ももらえますし、しがみついてでもやりたいという人もいるんです。私がそう思わなかったのは、5~10年のスパンで世代交代が必要なのは選手だけでなく、監督も同じだからです。でも長いことトップでいると、周りにはイエスマンばっかりが集まって、居心地も良くなってきて、辞める決断ができなくなる。だから私は結果が出せなかったらスパッと辞めるって決めていたんです。就任7年目の2021年にリーグ4位になったんで、ここが引き際だなと。球団からは慰留されましたが、結果が出なかったときにトップが責任を取らなければ、組織の再生はできませんから。ソフトバンクがこれからも毎年、優勝を争うような強いチームであり続けるためにも、あのタイミングで身を引く決断をしたのは間違っていなかったと思います」(『各界のスペシャリストに学ぶ経営のヒント 勝ち続けるための組織づくりと人材育成』あんしんLife2024年1月号)
長期政権による馴れ合いや気のゆるみを嫌い、チームの再起を願って身を引くというのは、中嶋監督、工藤氏に共通する姿勢だ。引き際をわきまえているのは名将の条件の一つだろう。
一方的な解任に抵抗した監督も
ただ「勇退」といわれるような、監督冥利に尽きる身の引き方ができるのは、希少なケースだ。多くの場合、監督交代は、本人の意向に関わらず、球団が一方的に首を切る「解任」であることがほとんどだからだ。やる気のある監督と、辞めさせたい球団のコミュニケーション不足により、とんでもない騒動になったこともある。
阪神の監督交代劇は、「お家騒動」とも称されるが、80年代後半から90年代にかけて成績が低迷した「暗黒時代」には、毎度のようにすったもんだが繰り返された。そのピークともいえるのが、1996年の藤田平監督解任騒動だ。
藤田氏は1995年のシーズン途中、成績不振により休養を申し出た中村勝広監督の後任として、二軍監督から監督代行に昇格し、翌1996年、監督に就任した。しかし、目立った補強はなく、育成もままならず、開幕から最下位を「独走」。負け犬体質を一掃するべく、ベテランも人気選手も特別扱いをせず、「鬼平」とあだ名がつけられるほどの厳しい態度で臨んだことから、選手からの評判は芳しくなく、新外国人獲得をオーナーに直訴し、頭越しにされたフロントとの軋轢も生じていた。
午前2時すぎまで「籠城」
加えて開幕から一度も勝率5割に届かない体たらくぶりに、甲子園球場ではファンが応援を拒否する事態に。そんな四面楚歌で迎えたシーズン終盤の9月12日、球団から解任が通告される。
しかし、オーナーから口頭ながら複数年契約の言質を取っていた藤田氏は約束が違うと猛反発。さらに解任理由が成績不振ではなく「求心力、統率力に欠ける」ということに「これまでの野球人生を否定されてしまう」と涙目で謝罪を要求し、翌日午前2時すぎまで約9時間に渡り、球団事務所に「籠城」を決め込んだ。一夜明けてからの再会談後に、球団が休養を発表、事実上の解任となった。この件について、藤田氏は多くを語ってはいないが、次のようなコメントを残している。
「監督を辞める時も親会社とは最後まで話ができなかった。(略)私にも引き際の美学があったが関係なし。阪神は球団や本社は誰も責任を取らず、歴代の監督が詰め腹を切らされてきたが、まさにその形ですわ」(週刊ポスト2019年11月5日)
楽天監督の電撃退任
今オフはセ・パ5球団で監督交代があったが、オリックス・中嶋監督とは別の形で「電撃退任」となったのが、楽天の今江敏晃監督だ。今江監督は今季から指揮をとりチームを交流戦初優勝に導き、シーズンも最終盤までCS進出争いを繰り広げ4位と、ルーキー監督としては及第点以上の戦いぶりを見せていた。
しかし、球団には選手の起用法や采配面で不満があったとされ、借金5で5割を割り込んだシーズン成績を理由に、2年契約の1年目でチームを去ることになった。球団の発表によれば「解任」ではなく、「契約解除」。藤田氏は、阪神球団は監督という仕事を「電車の車輪の一部程度にしか見てない」といったそうだが、楽天球団も監督の契約を、スマホのように簡単に途中解約できると考えているということか。
球団組織の中では歯車の一つ
「球団には若い自分に監督というチャンスをいただけたことに感謝しています。私自身は今年一年を全身全霊、信念を持ってぶれずにやったので悔いはありません」(日刊スポーツ2024年10月11日)と今江監督。契約期間を見越した、若手選手の長期的な育成の構想などもあっただろうに、恨み節を残すわけでもなく、潔い身の引き方だった。
プロ野球の監督は現場のトップだが、球団組織の中では歯車の一つでしかない。出処進退を自分で決めることができるのは、実績を残した監督だけに与えられる特権といえるのかもしれない。
石川哲也(いしかわ・てつや)
1977年、神奈川県横須賀市出身。野球を中心にスポーツの歴史や記録に関する取材、執筆をライフワークとする「文化系」スポーツライター。
※トップ画像は、オリックス・バファローズ本拠地「京セラドーム大阪」Loco – stock.adobe.com