現代の食トレに通じる「金田鍋」 この食に対する姿勢は、選手生活晩年に巨人でプレーすることになってからも変わることはなかった。 「巨人に移籍して一番驚いたのは食事だった。宮崎キャンプで、宿舎の『江南荘』で出された料理を見て…
画像ギャラリーいよいよ2月1日にプロ野球がキャンプインする。これから約1ヵ月、厳しいトレーニングの日々が続くことになり、選手の体づくりを支える食事は、シーズン中にもまして重要になってくる。そんなキャンプにおける食の重要性を、昭和の昔に唱えていたのが、400勝投手として知られる金田正一(かねだ・まさいち、1933~2019年)だ。伝説となっている「金田鍋」をはじめ、選手、監督時代と食に関するエピソードには事欠かない。スポーツ栄養学が一般的になった今、改めて金田の「キャンプ食改革」にスポットを当てたい。
昭和の昔は、食事への認識が浅く
プロ野球のキャンプといえば、過酷な練習の日々に伴う食事が肝心になってくる。単に練習で消費したエネルギーを補うだけでなく、筋力やスタミナをアップし、長いシーズンを乗り切る体をつくるには、バランスの良い食事を採り、十分な栄養素を摂取することが不可欠だ。
しかし、昭和の昔のプロ野球界では、選手の食事に対する認識は浅かった。この頃のキャンプは旅館が宿舎になることがほとんど。大広間での夕食は和食中心の、一般客向けのメニューと同じもので、野球選手の強靭な肉体を作り上げるには物足りない内容だった。それが常識だった時代に、金田正一は「食事こそ体づくりの基本」という明確な信念を持ち込んだ。
プロ野球を代表する大エース
金田といえば昭和のプロ野球を代表する大エース。国鉄(現ヤクルト)スワローズ、読売ジャイアンツで計19年プレーし、通算400勝、4490奪三振、14年連続20勝と数々の日本記録を打ち立てた。そんなレジェンドが現役引退から4年、1973年に40歳でロッテの監督に就任すると、まず着手したのが、選手たちの食生活の見直し。
特に力を入れたのが、春季キャンプの食事だった。1日の総摂取カロリーは6000kcal超。前年より1日の肉の量を400g増量し、牛乳やくだものは飲み放題、食べ放題とし、朝食の品数も増やした。夕食のテーブルに並ぶのは新鮮な高級食材を惜しみなく使った和洋中多種多様な料理の数々。なかでも金田流キャンプ食改革の中心にあったのが鍋料理だ。
「食べろ、食べろ」の徹底指導
いまでこそバランスよく栄養の摂取できるアスリート食として鍋料理や具だくさんスープなどが注目されているが、金田は現役時代からお手製の「金田鍋」を食べて体づくりをしてきた。当時のロッテOBが金田監督時代のキャンプを振り返るとき、食事で毎日のように鍋料理を食べさせられたことは、ひたすら走らされた厳しい練習と並んで、決まって出てくるエピソードだ。
木樽「よく鍋料理を食べさせられましたね。肉も野菜も『バランスよく食べろよ』と厳しく言われて。でも、20代そこそこで、鍋料理ばかりは、さすがにね(笑)」
村田「私は、鍋料理が嫌いだったんだけども、そうしたら『じゃあ好きになれ』と言われたね(笑)。夕飯のビールも飲めたけども1本にしておけと。夜の門限もあったしね。 (略) とにかく野球を中心に物事を考えて、自己管理を徹底させられた。ある意味で野球界を変えたといってもいいんじゃないかな」
(『ロッテレジェンド対談 木樽正明×村田兆治 2人の投手が語る金田監督の「人情野球」』Sportsnavi)
「1時間ルール」とは
さらに金田は選手たちに練習後の夕食は1時間かけてゆっくり食べるよう指示した。
「走れ、走れ」のランニング中心でハードな金田式トレーニングをこなしヘトヘトになった後、1時間かけて大量の食事を採るのは「苦行」といえたが、金田は夕食会場の出入り口付近に陣取り選手たちの食の進み具合に目を光らせていたという。この「1時間ルール」には、消化を促進し、練習で消耗した体を効率よく回復させる狙いがあった。当時の主力選手だった得津高宏は、次のようにいっている。
「キャンプに入って最初のうちは、その豪華な食事もまだ食べられるんです。体力がありますから。しかし、1週間くらい経つと練習がきつくて、体が受け付けなくなる。それでも僕らは無理をして食べていましたよ。それによって、あの厳しい練習がこなせるようになっていったんです」(『体が資本! プロ野球選手の栄養学』スポーツコミュニケーションズ)
1日の食費は大卒初任給の半月分
「給料は全部食費に使いなさい。体にうんとお金をかけて、プロとして長く使えるような体をつくりなさい」
金田が食にこだわったのには、17才で高校を中退し、プロ入りするときに母親からかけられた、この言葉があったからだという。
決して裕福とはいえない環境で育った金田は、体力勝負のプロ野球界で食事がどれほど重要であるか心得ていた。国鉄時代にはキャンプ地に鍋釜を持ち込み、肉、魚、野菜と高級食材を全国から取り寄せ、時には自ら市場に出向いて調達し、鍋料理、鉄板焼き、スープなどを手作りし、後輩たちにも振舞った。1日の食費は当時の大卒初任給の約半月分、1万円にもなったという。
「他人から見たら、こんな贅沢してと思うかもしれないが、ワシら野球選手は何と言っても体が資本なんや。よけい給料をもろうとる代わり、それだけのもんは使っても、どうしたらスタミナの衰えを防げるか考えなきゃならん」(週刊ベースボール1965年3月8日増大号)
現代の食トレに通じる「金田鍋」
この食に対する姿勢は、選手生活晩年に巨人でプレーすることになってからも変わることはなかった。
「巨人に移籍して一番驚いたのは食事だった。宮崎キャンプで、宿舎の『江南荘』で出された料理を見て呆れたね。冷めたトンカツが食卓に並んでいるのよ。すぐに川上(哲治)さんに“私は自由にさせてもらう”と伝えたら、一発でOKとなった。川上さんも意識改革したかったんじゃないかな。ワシは部屋でメシを炊き、鍋をして、温かい食事を食べた。いわゆる『金田鍋』じゃ。すぐに末次(利光)、土井(正三)といった選手が集まってきて、もちろん王(貞治)や長嶋(茂雄)も来た。ワシは“食べないヤツは負ける”“健康でないと野球はできない”という信念を持っていたからね」(『V9の真実 ONの意識変革を呼び込んだ金田正一氏の「食事」と「散歩」』週刊ポスト2022年4月14日)
食べることも練習のうち。野球選手の体をつくる食事の重要性を、金田ほど深く理解し、実践した人物はほとんどいないだろう。その食に対する姿勢は、現代の「食トレ」に通じるものがある。金田の下でプレーしたロッテの選手たちも当初は戸惑いを見せていたものの、次第に金田式の食事に慣れ、それを受け入れるようになった。
1974年、金田監督のロッテは日本一に
チームは徐々に底力をつけ、金田の監督就任2年目、1974年にロッテは日本一となるが、その勝因に食事改革による体づくりがあったのは間違いない。時代は流れ、今やプロスポーツの世界で「食トレ」や栄養管理は当たり前のこととなった。そのさきがけが通算400勝の昭和の大エースであるという事実は、もっと語られていい。
石川哲也(いしかわ・てつや)
1977年、神奈川県横須賀市出身。野球を中心にスポーツの歴史や記録に関する取材、執筆をライフワークとする「文化系」スポーツライター。
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