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『おとなの週末Web』では、グルメ情報をはじめ、旅や文化など週末や休日をより楽しんでいただけるようなコンテンツも発信しています。国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。1970年代に「柳ジョージ&レイニーウッド」を結成し、「雨に泣いてる…」などのヒットで熱狂的な人気を誇ったロック歌手でギタリストの柳ジョージ(1948~2011年)の第2回です。愛する地元・横浜に開局したFMラジオ局から番組出演依頼を受けますが……。

1985年暮れ、FMヨコハマが開局 元ニッポン放送の敏腕ディレクターが編成課長に

FM多局化という時代があった。その始まりは1985年だった。それまで日本の民放FM局は、一エリア一局だった。関東地方ならFM東京、大阪を中心とする近畿地方はFM大阪といった具合だ。それが1985年12月20日にFMヨコハマが開局すると、一県一局が次々と広がっていったのだ

1985年ころのぼくの仕事は、音楽に関することを執筆するのを中心に、FM番組の選曲や構成も手掛けていた。FMヨコハマの開局前の6月、元ニッポン放送の敏腕ディレクターだったM氏が編成課長に就任した。出身が横浜だったので、ニッポン放送を辞して地元のFM局に就職したのだ。

ニッポン放送では部長をされていたから、格下げ人事になる職変えだったが、そんなことより地元のFM局をどう育ててゆくのかの情熱の方が大きかった。

柳ジョージのアルバムの数々

ジョーさんに了解を得ていなかった番組企画書

旧知のM氏に依頼されて12月20日の開局に向けて番組企画書を何本か提出した。その内の一本が地元、横浜を愛してやまない柳ジョージをDJに起用するというものだった。それまで他局でDJをしていなかったし、知名度抜群の柳ジョージ~ジョーさんの好感度は高く、M氏もすぐにO.K.を出してくれた。

実はこの時点ではジョーさん本人にもオフィスにも出演の了解を得ていなかった。地元横浜初のFM局だし、ミュージシャンとしてプロモーションにおいてメリットがあるのだから、二つ返事で引き受けてもらえると思っていた

柳ジョージが最近人気のヒット・ポップスを語る、そんな企画内容だったと思う。それを、ジョーさんを育てあげたマネージャー氏にFAXで送った。まだパソコンの無い時代だった。FAXを送信して2、3日してマネージャー氏から電話があった。本人はDJをやりたくないと言っている、でも事務所としてはやってもらいたいので、岩田さん、柳と会って話してみて下さいという内容だった。

その後すぐにジョーさんと横浜のバーで会った。まだジョーさんはシラフだった。“岩田さんの俺を思ってくれる気持ちはありがたいけど、ライヴのMCだって苦手なのに、とてもラジオでなんか喋れない”と彼は切り出した。これは大変な事になったとぼくはあせった。もう企画書を通してしまったのだ。

“別に誰かに向けて喋るって意識しないでいいんです。ジョーさんの独り言を皆は聴きたいんです”

そう説得しても首を縦に振ってもらえない。酒のピッチだけが上がってゆく。それに連れて、ジョーさんの口調も滑らかになっていった。根が優しいジョーさんは余りにぼくが説得するので、ついには“岩田さんがそんなに言うんだったらやるよ”と応じ、ぼくは粘り勝ちした。酔って言ったことでも必ず約束は守る。ジョーさんがそういう人だったからだ。

ハスキーな歌声が魅力だった

「人様の曲をあれやこれや言いたくない」 さらに出演条件がひとつ……

それからまた数日して、今度はジョーさんのオフィスのあった六本木で会った。酔って引き受けてしまったことは、マネージャー氏がジョーさんに伝えていた。ジョーさんは何とも決まり悪そうな顔で、コーヒーを飲んだ

“やるって言っちゃったんだから、やらせてもらいます”

ぼくはホッとした。

“だけど人様の曲をあれやこれや言いたくないんです。だから企画書は変えて欲しいな”

ではどういう企画なら大丈夫なのか、ジョーさんに訊いた。

“自分の好きな古いR&Bやスタンダードを紹介する。流行の音楽は意識しない。それと男の曲が中心で、女性ヴォーカルはビリー・ホリディとかアレサ・フランクリンくらいでできるだけ少なめにしたい”

それともうひとつ条件があった。

“自分が喋る時は、岩田さんに前に座っていて欲しい。何か失敗しそうだったり、変なことを言いそうになったらストップをかけてもらいたいから”

企画書は書き変えた。FMヨコハマのM課長も柳ジョージらしくて面白いと言ってくれた。そうして始まったのが、「コンバーチブル・ヨコハマ」という番組だった。オープンカーを意味する“コンバーチブル”は、クルマ好きだったぼくとジョーさんの考えたものだ

ジョーさんが逝って丁度10年。今でもぼくのSNSに命日のころ、「コンバーチブル・ヨコハマ」を聴いていたというファンの声が届く。

“泣きのギター”で多くのファンを魅了した

岩田由記夫

岩田由記夫

1950年、東京生まれ。音楽評論家、オーディオライター、プロデューサー。70年代半ばから講談社の雑誌などで活躍。長く、オーディオ・音楽誌を中心に執筆活動を続け、取材した国内外のアーティストは2000人以上。マドンナ、スティング、キース・リチャーズ、リンゴ・スター、ロバート・プラント、大滝詠一、忌野清志郎、桑田佳祐、山下達郎、竹内まりや、細野晴臣……と、音楽史に名を刻む多くのレジェンドたちと会ってきた。FMラジオの構成や選曲も手掛け、パーソナリティーも担当。プロデューサーとして携わったレコードやCDも数多い。著書に『ぼくが出会った素晴らしきミュージシャンたち』など。 電子書籍『ROCK絶対名曲秘話』を刊行中。東京・大岡山のライブハウス「Goodstock Tokyo」で、貴重なアナログ・レコードをLINNの約350万円のプレーヤーなどハイエンドのオーディオシステムで聴く『レコードの達人』を偶数月に開催中。

※写真や情報は当時の内容ですので、最新の情報とは異なる可能性があります。必ず事前にご確認の上ご利用ください。

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岩田由記夫
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