江戸時代の暮らしに使われていた銘品は、今もなお職人さんの手によって作られています。江戸時代から続く伝統を受け継ぎ、そしてつなげていく──。そんな職人さんの今を知るべく、工房へ伺いました。
画像ギャラリー江戸時代、贅沢を禁じられた武士たちが、一見無地に見えるよう着物の柄を細かくした……。
これが「小紋」の始まりと言われる。いわば苦肉の策で生まれた小紋が、やがて「江戸の粋」として武士階級だけでなく、町人の間でも大人気に。江戸小紋の伝統を守る、小宮染色工場3代目小宮康正さんにお話を伺った。
伝統とは人から人へ、思いをつなげていくこと
「伝統というと、昔ながらにやっていればいいと思われがちですが、そうではありません。改良の連続によってこそつながっている。ですから、伝統とは実は『最先端』なんです」
小宮康正さんが語り出した、「伝統」への考えは意外なものだった。
江戸小紋の作成過程は、実に細かい手仕事の連続だ。
和紙で作られた渋紙に紋様を彫る「型紙」づくり、生地に型紙をのせて糊をのせていく「型付け」、その後生地全体を染める「地染め」をした後、「蒸し」、「水洗い」「乾燥 」……気が遠くなるような時間と手間をかけて、江戸小紋は生まれる。
「いまだにこんなことをしてるんだ、と思いますよね」
その工程を説明してくれる小宮さんは笑う。中でも特に繊細な、「型付け」の作業を見せてもらった。
わずかな灯が、作業場となる「板場」を浮かび上がらせるほの暗い工房。まずは、糊を塗った板に白生地を張り、型紙の上から糊をつけていく。彫幅40㎝ほどの型紙をずらしながら、一反すべて終えるまで約80回も同じ作業を繰り返す。
「『型』にも微妙なクセがあるんですね。どうしても曲がったりするので、髪の毛何分の1というところを微調整しながら進むんです」
少しのズレでもそれが重なれば、1反が終わる頃大きなゆがみになってしまう。職人の精神統一が必要だ。工房の湿度や明るさも厳密に管理されており、「本来は、作業中一切他の人はいれません」と小宮さん。黙々と繰り返される手仕事。
それは、まさしく「昔ながら」そのものに見えるが――。
「時代と共にいろいろと変わっているんですよ。糊をつける『ヘラ』も、昔は作業効率の悪い『竹ベラ』が使われていました。現在の『デバベラ』が考案されたのは明治の頃なんです。工房の灯も、昔は障子からの自然光だったのを、のちに白熱灯に替えました。今はさらに替わって、LEDです。LEDは熱が出にくく、糊を乾燥させないんですね」
また、「蒸し」の工程では、昔はかまどで火を焚いて蒸していたという。かまどを修理する職人がいなくなり、泣く泣くボイラーに変えた。しかし、使ってみれば、ボイラーは微調整ができるので、かえって出来もよくなったという。
「健在だった父親が、『もっと早く替えればよかったな』とぼやいてました」と小宮さん。加湿器、デジタル秤など、ほかにも「小紋にとってよい」と思ったものはためらわず採り入れる。イノベーションである。
こうした、「変えたほうがよい部分」がある一方で、当然ながら「守るべき部分」がある。
「その線引きは難しいですね。ただひとつ言えるのは、『儲け』に走って工程を変えてしまうと、伝統が伝統でなくなってしまうということでしょう」
たとえば、本来は職人が手作業で仕上げる型紙を、完全デジタル化もできる。しかし、その作品を見ながら小宮さんは言う。
「ある意味非常に正確なんです。でも、どこかが違う。この柄の着物を人に着てもらうと、まるで印刷物を着ているように見えてしまう。着物というのは、そうではなく、いかに人を『映えさせられるか』が肝心だと思うのです。その違いは、私にもうまく表現できないんですが……。ただ、人が心動かされるものは、やはり人が整え、作り上げたものなのだろうと思うのです」
幾多の災難を乗り越え人間国宝に
小宮染色工業の創業は、1907(明治40)年。小宮さんの祖父にあたる小宮康助さんが、長年の修業を経て浅草の地に独立開業した。
ところが、1923(大正12)年、関東大震災により家屋を焼失してしまう。1929(昭和4)年、現在の葛飾区新小岩に移転。そのわずか5年後、隣家からの出火でまたも全焼。再建するも、1945(昭和20)年には、空襲によって家屋をすべて失ってしまう。
康助さんは、40年ほどの間に家屋を7度も建て替えているという。そのうち5度は、関東大震災、空襲を含む災害によってであった。
幾度もの災難にみまわれながらも、康助さんは染色の技を高め、磨いていく。1955(昭和30年)、その技術が認められ、国から重要無形文化財保持者の認定を受けた。いわゆる「人間国宝」となったのである。
「江戸小紋」という呼称は、実はこの時から使われるようになったもの。他の小紋染めと、康助さんの「小紋」を区別するため「江戸小紋」という呼称が生まれたのだ。
その後、小宮染色工業2代目にあたる父・康孝さんが1978(昭和53)年に、3代目康正さんが、2018(平成30)年、重要無形文化財保持者に認定された。
「重要無形文化財の『無形』とは何だろうか、と考え続けました。技術も技法も時代とともに変わりますし、変わっていいと思います。すると、一番重要なのは『いかにものづくりに取り組むか』という思いを、次の世代に伝えていくことではないかと。ものづくりへの、人の『思い』を伝えていくのが、私の中の伝統だと思っています」
小紋は分業の世界 全体で意識改革を
小宮さんの息子・康義さんも現在、「江戸小紋」の道を歩んでいる。「型付け」の工程は康義さんに任せている。心強い4代目だ。しかし、だからといって「江戸小紋の未来は安泰ではない」と小宮さんは言い切った。
「江戸小紋は分業の世界です。型紙を彫る職人さんがいますし、その紙を漉く和紙職人もいます。まず、紙の質が悪ければ、型紙はあっという間に使えなくなってしまう。型紙職人も彫りにくいんですね 」
和紙職人、型紙職人ともに高齢化が進み、「風前の灯」だという。
「紋様は伝統的なものもあれば、現代新たにデザインしたものもあります。型を彫る職人、また彫り方の注文の仕方でも紋の表情が変わるんですね。
型紙は消耗品ですから、型紙職人に存続してもらうのが大前提です。実際に使う分の20倍くらい依頼しないと、型紙職人が食べていけない。ですから、先々代の昔から、あまり使わない型も注文して、職人を守ってきました。
今うちの倉庫には型紙がたくさん保管してあります。これが江戸小紋の生命線ですから、火災や災害はほんとうに怖いです。祖父は5度も家を失くし、どんな思いだったのかと……」
しかし、守ろうとしても職人 の「なり手」がいなければ守りようがない。小宮さんの表情がかげった。
一方で、切羽詰まったことがよい結果を生んだ例もあるという。
「糊の原料は『米糠』なんですが、長年お願いしていた糠の製粉業者が廃業してしまったんです。しかたなく、製粉機械を買って自家製粉し始めたのですが、これがかえってよい結果になりました。
業者は『製粉しやすい糠』を選んでいたのですが、私たちは『糊の原料として最適な糠』を選べる。そこで、玄米の表面8%の糠と、吟醸酒を醸すため酒米を削った米の中心に近い部分の糠を独自の配合で混ぜてみました。すると、以前よりぐっと質のよい糊になることがわかったんです」
「蒸し」の工程で「ボイラー」に替えた時と同じように、「ピンチをチャンスに変えた」のだと小宮さんは語った。
「ただし、『江戸小紋』の工程すべてを自社でしてしまえばいいかというと、それは違うと思います。ひとりができることは限られています。同じ人がつくれば、その『器』のものしかできませんが、分業の世界では、各々のレベルが上がれば、想像を超えたいいものができるはず。ですから、江戸小紋の未来は業界全体の意識改革にかかっているのです」
100年ぶりに帰って来た祖父の布が伝えるもの
最近、康正さんに不思議な出来事があった。
たまたま出かけた鎌倉で、古着屋に入ると、一枚の古布が目に留まった。3500円の値札がついていたが、値切ってみると店主が2500円でいいという。この布がなぜだか気になった康正さんは、家に帰り、祖父が創業した明治40年頃の見本帳と見比べてみた。
「祖父が染めていた見本と、雰囲気がまったく一緒なんです。紋様が完全に一致するわけではないのですが、ほぼまちがいなく祖父が染めたものだと思います。100年前に染められた布が、100年ぶりに帰って来たんですよね。しかも遠く離れた鎌倉から……。
江戸小紋は、大事に使っていけば、次の世代へつなげられ、親の思いを次の世代へつなげていくもの。洋服は数年、へたをすると1年で寿命ですが、着物は子から孫へ、2代、3代と伝えられるものです。親から子へ、子から孫へ。それだけ耐えられるようなものをつくらねばならない。それもまた着物を通して、『思い』をつなげるということだと思います」
巡り巡って帰って来た祖父の古布は、康正さんに、その使命をあらためて伝えに来た使者だったのかもしれない。
■小宮康正さん、康義さん 親子
1907(明治40)年に祖父・康助さんが浅草で小宮染色工場を創業。1929(昭和4)年、葛飾区新小岩に移転。1955(昭和30年)、康助さんが国から重要無形文化財保持者の認定を受ける。
1978(昭和53)年、2代目の父康孝さんが、2018(平成30)年、3代目康正さんが重要無形文化財保持者の認定に。4代目にあたる康正さんの息子康義さんもまた江戸小紋の道に進む。2022年9月14日~26日「日本伝統工芸展」(日本橋三越本店)出品
取材/本郷明美 撮影/石井明和
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