音楽の達人“秘話”

愛称は「チンペイさん」谷村新司が語ったその由来「黒いサングラスをかけて行ったら…」

国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。連載「音楽の達人“秘話”」は、シンガー・ソングライターの谷…

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国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。連載「音楽の達人“秘話”」は、シンガー・ソングライターの谷村新司の回が始まります。

1948年12月生まれ、大阪府出身。71年12月、神戸の音楽サークルで知り合いだった堀内孝雄(1949年10月生まれ)と「アリス」を結成し、72年3月にシングル「走っておいで恋人よ」でデビュー。同年5月に矢沢透(1949年2月生まれ)が参加して3人グループとなり、「帰らざる日々」「冬の稲妻」「ジョニーの子守唄」「チャンピオン」「秋止符」「狂った果実」など数々のヒット曲を世に送り出しました。同時にソロ歌手として80年には「昴」を発表。作詞・作曲し、山口百恵が歌った「いい日旅立ち」(78年)など提供作品も日本の音楽史に名を刻みます。81年のアリス活動休止後は主にソロで活躍してきましたが、2023年10月8日、74歳でこの世を去りました。所属事務所によると、23年3月に腸炎の手術を受けて療養中だったといいます。

「音楽の達人“秘話”」谷村新司は全5回。どれも必読です。第1回は、愛称「チンペイさん」の由来や売れなかった頃の思いなど、執筆者が本人から聞いたエピソードを交えて、「チンペイさん」を偲びます。

「一番好きな季節は冬」

冬を迎えることなく谷村新司が逝った。生前、特に2000年代頃まで何度もお逢いした。

“一番好きな季節は冬かな。爽やかな冷気が身を刺す、あの感じが好きなんです。心が引き締まる気がするし、冬は星がきれいなのも良い”

好きな季節について、そう語っていたのを思い出す。彼が30歳頃の会話だ。

“ぼく達の世代だと夏が一番好きという人が多いんじゃないかな。海、山、女の子…。でもぼくの子供時代は悲惨だった。とても太っていてね。ブーちゃんとかブタって呼ばれて、水着になるのが恥ずかしかった。ぼくだけが肥満児だったわけでないので、自意識が過剰だったんでしょうね。要するに女の子にもてたかったんだろうな”

アリスや谷村新司などの作品の数々

「チンペイさん」の愛称の由来は…「自分も下ネタが大好きだから」

ぼくが谷村新司と初めて逢ったのは1975年、「今はもうだれも」がヒットの逃しが見えた時期だ。所属していた東芝EMIレコード(当時)の敏腕プロモーション・マンのOさんがライヴに誘ってくれ、終了後の楽屋で谷村新司と逢わせてくれたのだ。その前年、1974年 には年間300回以上のライヴをこなし、Oさんは絶対に大ブレイクすると信じていた。

出逢った当時は2歳年上なので谷村さんと呼んでいた。でも周囲のスタッフは、チンペイとかチンペイさんと呼んでいて、ぼくもいつの間にか愛称で呼ばせてもらうようになった。目下の者にも優しい気配りができる方で、年下のぼくなのにクン付けでなく、岩田さんと必ず呼んでくれた。話をしていると座を盛り上げ、ぼくが勧められたコーヒーを飲み終えると、すぐにスタッフにお代わりを運ばせてくれた。若い時から、とにかく気配りが完壁な人だった。

何故、チンペイと呼ばれるようになったか、直接本人に訊ねたことがある。

“自分でもよく覚えていないんだけど、黒いサングラスをかけて行ったら、野末陳平さん(のずえ・ちんぺい、放送作家・タレント、元参院議員)みたいだって言われて、それでチンペイになったんじゃなかったかな。御本人には失礼だけど陳平さんって下ネタが得意そうじゃない?。で、自分も下ネタ大好きだから、チンペイさんって呼ばれるのに抵抗はないな”

アリスの作品の数々

生の“ジャニス・ジョプリン”を観た!

谷村新司の下積み期間は長い。フォーク・ ブームに影響を受けて、男性2女性1名と いうピーター・ポール&マリーと同じ編成のグループを組んだのは1965年。ロック・キャンディーズというグループ名だった。関西ではかなりの人気を得て、1968年秋にはデビュ一・シングル「どこかに幸せが」を、1971年 には唯一のアルバム『讃美歌』が発表された。 この頃から谷村新司は作詞・作曲も手掛けていたから、日本のシンガー・ソングライターのルーツのひとりと言える。

1970年、大阪万博の年にはザ・フォーク・クルセダーズと共にアメリカでコンサート・ツアーまで行なっている。この時に参加していたブラウン・ライスというバンドのドラマー矢沢透と意気投合し、帰国したら一緒にやろうと約束する。帰国後、フーリッシュ・ブラザー・フットのヴォーカルだった堀内孝雄をアリスに誘った。

まず1971年末、谷村と堀内がアリスとして練習を始めた。翌1972年3 月、シングル「走っておいで恋人よ」でデュオのアリスとしてデビュー。同年5月に矢沢透が合流し、3人組となった。

“アメリカではあまり良い思い出は無いんだけど、ツアー中の(英ロック・バンド)レッド・ツェッペリン、それと(米女性ロック・シンガー)ジャニス・ジョプリンのライヴを観れたのは幸運だった。来日したツェッペリンを観れた人は多いだろうけど、生のジャニスを観た人は少なかったと思う”

「アリス」のファーストアルバム「アリスI」(1972年)と、アリスの前に谷村新司がリーダーを務めたグループ「ロック・キャンディーズ」のファースト・アンド・ラストアルバム『讃美歌』(1971年)

「売れなかったけど、この道を行くしかない」

デビューから2年少し、アリスはまったく売れなかった。

“とにかく売れなかった。でもライヴをやる度に少しずつお客さんが増えていく。手応えはあるんだけどレコードは売れなかった。それでも選んだこの道を行くしかないと思ってた。年に300回以上ライヴをやって、ようやく「今はもうだれも」(1975年)が初めてヒットした。やったねと思ったね”

谷村新司の作品の数々
谷村新司の作品の数々

岩田由記夫
1950年、東京生まれ。音楽評論家、オーディオライター、プロデューサー。70年代半ばから講談社の雑誌などで活躍。長く、オーディオ・音楽誌を中心に執筆活動を続け、取材した国内外のアーティストは2000人以上。マドンナ、スティング、キース・リチャーズ、リンゴ・スター、ロバート・プラント、大滝詠一、忌野清志郎、桑田佳祐、山下達郎、竹内まりや、細野晴臣……と、音楽史に名を刻む多くのレジェンドたちと会ってきた。FMラジオの構成や選曲も手掛け、パーソナリティーも担当。プロデューサーとして携わったレコードやCDも数多い。著書に『ぼくが出会った素晴らしきミュージシャンたち』など。 電子書籍『ROCK絶対名曲秘話』を刊行中。東京・大岡山のライブハウス「Goodstock Tokyo(グッドストックトーキョー)」で、貴重なアナログ・レコードをLINN(リン)の約400万円のプレーヤーなどハイエンドのオーディオシステムで聴く『レコードの達人』を偶数月に開催中。最新刊は『岩田由記夫のRock & Pop オーディオ入門 音楽とオーディオの新発見(ONTOMO MOOK)』(音楽之友社・1980円)。

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