おとなの週末的クルマ考

まさに相思相愛の関係!! 生涯現役を貫いた篠塚建次郎さんが愛でた三菱車 

今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた199…

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今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第8回目は、2024年3月18日にご逝去されたシノケンの愛称で親しまれた篠塚建次郎さん(享年75)に縁のあるクルマについて振り返ってみたい。

社員ラリードライバーとして国内外で活躍

篠塚さんは三菱に入社してあっという間に全日本ラリー選手権を席巻

篠塚さんは東海大学在籍中にラリーを始め、卒業後に三菱自動車(以下三菱)に入社。国内外のラリーに力を入れていた三菱ということもあり、社員ラリードライバーとして国内ラリーに抜擢され、ベテラン勢がひしめくなか、いきなり1972年、1973年に2連覇を達成して国内ラリーを席巻した。

三菱は1967年から海外の国際ラリーに参戦していたこともあり、国内を席巻した篠塚さんの次なるステップは、当然のように海外ラリーで、1974年に海外ラリーデビューを果たした。その時のマシンがランサー1600GSRだった。

ランサー1600GSRはこの後8代続くランサーの初代モデル。1973年にデビューして1979年まで販売された。GSRは三菱のスポーツモデルに与えられる名誉ある称号で、ランサーはギャランGTO(GS-Rとハイフンが入っていた)に次いで2番目。ちなみにGSRはグランド・スポーツ・レーシングの略だ。

三菱ワークスのこのカラーリングをまねたレプリカカーも多数出現。ランサーGSRは三菱初の競技ベース車

篠塚さんは、このランサー1600GSRを駆り、1976年のサファリラリーでは6位に入賞し、伝統のサファリラリーで初めて入賞した日本人として名を刻んだ。これが篠塚さんのラリーにおける日本人初記録の始まりとなる。

三菱の海外ラリー挑戦は三菱ファン、ラリーファンを熱狂させ特にラリーマニア筋はランサーGSRをラリーカーの黒いボンネットと同じカラーリングにしたクルマが増殖したほど影響力を持っていた。

排ガス規制により急転直下

海外でのラリー活動も軌道に乗り、活躍が期待されていた篠塚さんだったが、昭和53年(1978年)排ガス規制に合わせ排ガスの浄化技術の開発のため三菱は1977年いっぱいで公式のラリー活動を休止!!

篠塚さんは社員ドライバーだったので、三菱のラリー活動休止=自身のラリー活動休止となってしまった。三菱は1981年頃からラリー活動の復活の兆しを見せていたが、篠塚さんがラリーに復帰するのは1986年。つまり三菱の活動休止から8年間ラリーから遠ざかり、社業に専念していた。業務は多岐にわたり宣伝、営業、商品企画、海外関連などに携わっていたという。篠塚さんほどの実力があれば、三菱を退社してフリーのラリードライバーになることもできただろうが、日本では「レースで飯は食えても、ラリーでは食っていけない」というのが常識だった。

社員ドライバーの後フリーに転身し、生涯現役ドライバーを貫いた篠塚さん

パジェロ、篠塚、パリ・ダカ

篠塚さんがラリーに復帰したのは、1986年のパリ・ダカールラリー(以下パリ・ダカ)。俳優の夏木陽介さん(2018年、享年81)が、『チームシチズン夏木』のドライバーに篠塚さんを抜擢。初代パジェロで世界一過酷なラリーと言われたパリ・ダカに初挑戦し、総合46位で完走。夏木さんが『チームシチズン夏木』の監督業に専念となった1987年には総合3位、1988年には総合2位とプライベートチームの篠塚さんは、本家三菱ワークスを凌駕する結果を残した。これにより、『パジェロ、篠塚、パリ・ダカ』がセットで一般人にも定着した。

篠塚さんがパリ・ダカでドライブした初代パジェロは、ライセンス生産していた三菱ジープに代わるオフロード4WDとして開発が進められ、ジープ生産により培った技術を集結させて1982年にデビュー。

初代パジェロは武骨さと愛くるしさが同居。写真の左上にあるのが初代をベースとしたパリ・ダカ用マシン

初代パジェロはデビュー時から高いポテンシャル持ったオフロード4WDと自動車評論家、ラリードライバーから評価は高かったが、販売は芳しくなかったという。それは当然で、今のようなSUVブームでもないし、必要に迫られて悪路やオフロードを走るという人はいても、好んで走る人はほとんどいない時代だったから。オフロード4WD車はクロスカントリーを略してクロカンと呼ばれていたが、一般受けするクルマではなかった。

またトヨタのランドクルーザーが1951年デビューであるのに比べると歴史は浅い。その新参のパジェロが世界各国で支持されるようになったのは、パリ・ダカでの活躍を抜きには語れない。パリ・ダカで高いオフロード性能、信頼性を証明して見せた。特に日本では篠塚さんの存在が大きい。

これには1985年からNHKがパリ・ダカを放映開始したのも見逃せない。それまで専門誌くらいしか扱わなかったパリ・ダカをTV放映したことで、一気に知名度がアップ。結果論だが、篠塚さんは最高のタイミングでパリ・ダカに参戦したということになるだろう。

1991年に日本自動車研究所のテストコース(茨城県)、通称谷田部で篠塚さんのパリ・ダカマシンと記念撮影した当時24歳の若造だった筆者

2代目パジェロはクロカンブームをけん引

パリ・ダカでの活躍により一気に知名度を上げた初代パジェロだが、日本でバカ売れしたかというとそうではなかったと思う。私もパジェロの凄さは見聞きしていたし、パリ・ダカでの活躍も知っていたが、個人的には興味の対象ではなかった。私の周りを見る限り、10代、20代の若者を熱狂させるクルマではなかったと思う。

2代目パジェロはオフロード性能は当然ながら、初代のイメージを踏襲しながらもデザインが洗練されたこと、質感と高級感が大幅にアップしたことも人気の要因

しかし2代目パジェロが登場して一変!! 2代目パジェロがデビューしたのは1991年1月。1989年は日産フェアレディZ、日産GT-R、ユーノスロードスターなどが登場した日本クルマ界のビンテージイヤーと呼ばれているが、その一方でトヨタハイラックスサーフ、トヨタランドクルーザー80、日産テラノといったクロカンが若者の間でもジワジワと人気となっていた。そして2代目パジェロのデビューが決定打となり日本でクロカンブームが勃発した。今思い出しても凄い人気だった。当時クロカンというだけで売れたが、若者の間では2代目パジェロとハイラックスサーフが人気の双璧だったと記憶している。

2代目パジェロがデビューした1991年といえば、私が社会人になった年。大学次回から引き続き渋谷でよく遊んでいた。1980年代中盤以降から渋カジブームが続いていて、紺ブレ、リーバイス501、AVIREX、RedWingの靴などが流行っていた渋谷で、『BANDIT(バンディット)』と呼ばれるクロカン4WDチームが幅を利かしていた。RUN DMCを大音量で流し、渋谷の公園通りを徘徊していて、今思えばガラが悪く、迷惑行為なのかもしれないが、カッコいいと憧れた。今考えると恥ずかしくなるが、あれを見て2代目パジェロが欲しくなった。

パリ・ダカで日本人初優勝!!

1997年のパリ・ダカで激走する篠塚さん。チームメイトとの熾烈なバトルを制し念願の初優勝!!

話を篠塚さんに戻そう。三菱はパリ・ダカで初代パジェロベースのラリーマシンを進化させプジョー、シトロエンと激戦を繰り広げていたが、1991年に2代目パジェロベースのプロトタイプマシンにチェンジ。2代目パジェロをあの手この手で進化させ続けた。

そして1997年に篠塚さんはパリ・ダカで念願の初優勝を飾った。パリ・ダカへの挑戦を始めて12年目でつかんだ栄光だった。パリ・ダカで総合優勝した初の日本人ドライバーとして名を刻んだ。

優勝できないのかもと弱気になったこともあるという篠塚さん。篠塚さんのパリ・ダカ初優勝は三菱ファンだけでなくクルマファンを喜ばせた

 自動車雑誌『ベストカー』の取材などで篠塚さんにお会いする機会は結構あった。経営されているペンションの『La VERDURA』(山梨県・北杜市)にお邪魔したこともある。篠塚さんは仕事の時もプライベートの時も、常にゆっくりと言葉を吟味して穏やかに喋る。

優勝したことに対するコメントを伺った時も、「これまで勝てそうで勝てなかった。悔しいという気持ちがなかったと言ったら噓になるが、それよりもよく頑張った、また次頑張ろうと自らを激励してきた。その一方でもう勝てないんじゃないか、と思うこともあったので、優勝できたのはとてもうれしい」と、いつもどおりゆっくりと穏やかに語ってくれた。 

篠塚さんは、その後も三菱&パジェロでパリ・ダカへの参戦を続けてが、2002年シーズン後に三菱を退社された。

篠塚さんのご自宅のラリー部屋の一角にパリ・ダカでの優勝トロフィなど栄光の品々が飾られている

WRCでも日本人初優勝

前述のとおり1986年のパリ・ダカの参戦によりラリーに復帰した篠塚さんだが、1988年にアジアパシフィックラリー選手権(APRC)の初代チャンピオンに輝いたのをはじめ、世界ラリー選手権(WRC)でも活躍。

1991年にWRCアイボリーコースとラリーで総合優勝。この優勝はWRCでの日本人初の快挙として大きく報道された。翌年のアイボリーコーストラリーでも優勝し2連勝。現在TOYOTA GAZOO Racingのワールドラリーチームで勝田貴元選手が活躍していて、篠塚さんに続くWRCウィナーへの期待感が高まっている。

APRC、WRCで篠塚さんが勝った時のマシンはギャランVR-4で、ランサーエボリューションの原型となったクルマだ。4WDターボ、4WS(四輪操舵)を備えた先進性で当時も大人気だったスポーツセダンだ。

ギャランVR-4は三菱の主力セダンのギャランをベースにラリーで勝つための技術が惜しげもなく投入された

ザっと篠塚さんがラリーで使った縁の深いクルマについて振り返ってみたが、三菱が誇ったランサーエボリューションの開発にも篠塚さんは携わっていた。自らランサーエボリューションでラリーにも参戦したし、退社するまで社員ドライバーとして開発、宣伝などこなし魅力をアピールしていた。

その後はソーラーカーレース、クラシックラリーなど母校の東海大学のほか、東京大学の学生とのモータースポーツにおけるコラボレーションも積極的に展開。何よりも生涯現役を貫いたことが凄い。篠塚さんのラリー界だけでなくモータースポーツ界への貢献は計り知れないものがある。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

母校である東海大学のソーラーカープロジェクトの発表会での篠塚さん。ドライバーとして学生たちをけん引

【2代目パジェロミッドルーフワイドVR主要諸元】
全長4650×全幅1785×全高1870mm
ホイールベース:2725mm
車重:1970kg
エンジン:2972cc、V型6気筒SOHC
最高出力:155ps/5000rpm
最大トルク:24.0kgm/3000rpm
価格:298万3000円(5MT)

【豆知識】
ギャランVR-4は1987年10月デビュー。VR-4は三菱の主力セダンのギャランのトップグレードで、WRCに参戦するために開発されたモデルだった。2Lターボエンジンを搭載し、駆動方式は4WD、後輪が操舵する4WSも装備していた。常に進化を続けたのも競技ベース車の宿命で、エンジンはデビュー時の205psから最終的には240psまでパワーアップ。ランサーエボリューションは、ギャランVR-4があったから存在するとも言われる三菱にとって重要な意味を持つクルマだ。現在もタマ数は多くないが中古マーケットにも流通していて中古価格は高騰中。

ギャランVR-4は動力性能を売りにしたスポーツセダンだが、逆スラントノーズ、ボディサイドがSの字の形状になるなどデザインも優れていた

市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。

写真/MITSUBISHI、ベストカー、ベストカーWeb

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