皇室のヒミツ、皇族の素顔

“ラストエンペラー”は日本の食堂車でどんな料理を味わったのか 残されたメニューと残されなかったメニュー

東京駅に到着した満洲国皇帝溥儀を乗せた御乗用列車=1935(昭和10)年4月6日、写真/宮内公文書館蔵

映画『ラストエンペラー』でも知られるかつての満洲国皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)。1934(昭和9)年から1945(昭和20)年までのその在位中には、国賓として二度ほど日本を訪れている。明治神宮、大正天皇多摩陵、明治天皇桃山陵、伊勢神宮と巡られ、食堂車を連結した専用列車で国内を旅した。その食堂車では昼食が提供されたが、何を召し上がったのか、どんな料理だったのか。その謎に迫ってみたい。

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映画『ラストエンペラー』でも知られるかつての満洲国皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)。1934(昭和9)年から1945(昭和20)年までのその在位中には、国賓として二度日本を訪れている。明治神宮、大正天皇多摩陵、明治天皇桃山陵、伊勢神宮と巡られ、食堂車を連結した専用列車で国内を旅した。その食堂車では昼食が提供されたが、何を召し上がったのか、どんな料理だったのか。その謎に迫ってみたい。

※画像は、東京駅に到着した満洲国皇帝溥儀を乗せた御乗用列車を出迎える昭和天皇=1935(昭和10)年4月6日、写真/宮内公文書館蔵

満洲国と皇帝溥儀

歴史教科書などでは「満州国」と記されることは多い。これは本来の国名だった「満洲国」の「洲」が常用漢字にないためである。満洲国は、旧日本軍(関東軍)が占領した当時の中華民国(現在の中国)東北部に、独断で建国を進め、日本政府がその動きを追認したものだった。

1932(昭和7)年に建国された満洲国だったが、事実上は”日本の植民地”のような扱いだった。国際連盟の加盟国は、満洲国の土地は中華民国の主権下だとし、その見解に異議を唱えた日本は、この翌年に国際連盟を脱退した。これにより、日本の国際的な立場は厳しいものになったといわれる。

溥儀は、当初1932(昭和7)年の時点で、皇帝よりも格下の「執政」に就任することを嫌がり、あくまで「皇帝」であることを望んだといわれる。これを旧日本軍(関東軍)が“時期尚早”として受け入れなかったため、溥儀は激高したという。皇帝に就任したのは、その2年後だった。

皇帝に就任したころの愛新覚羅溥儀=写真/宮内公文書館蔵

政治と戦争に翻弄された専用車両

日本政府は、国策として外国賓客を接待するため、その専用車両となる「展望車(御料車第10号)」と「食堂車(御料車第11号)」の製作を鉄道省に指示し、1922(大正11)年4月に誕生させた。この2両は、”天皇の専用車”という意味合いを持つ「御料車」に属し、使用する外国賓客に対する”最高のおもてなし”の表れと位置付けられた。

もともとは、1922(大正11)年当時のこと、日英同盟を存続させたい日本が、国賓として歓待した英国エドワード皇太子の来日に合わせて製作したものだった。昭和天皇も摂政宮時代の1922(大正11)年7月に、北海道へ向かうお召列車で上野駅から青森駅まで乗車している。国賓用食堂車は、いわゆる御料車の食堂車(御料車第9号)とは異なり、天皇用の食堂車は2人掛けテーブル、国賓用は14人掛けテーブルであった。そして車体の色も異なり、天皇用の食堂車が深紅色と呼ばれる色に対し、国賓用は小豆色であった。

完成時に撮影された国賓用食堂車の“御食堂室”を写した写真=写真/宮内公文書館蔵

一度目の来日

1935(昭和10)年4月6日、「日満親善」のために来日した溥儀を、日本政府は“国賓”としてもてなし、歓迎した。海路・横浜港から日本に上陸した一行は、国賓用の展望御料車を連結した臨時列車「御乗用列車(ごじょうようれっしゃ)」で東京駅へと向かった。東京駅のプラットホームでは、昭和天皇が溥儀皇帝を出迎えた。

15日には、国賓用御料車の展望車と食堂車を連結した御乗用列車で京都へ向かわれた。その一番の目的は、「満洲国建国神廟(しんびょう)創建」のため、まつるものを自国へ持ち帰ることだった。

この列車には、お付きの人が食事をするための一般形の食堂車も連結された。食堂車での調理は、国賓用食堂車を宮内省大膳寮が担当し、一般形の食堂車は東洋軒が担当した。東洋軒は当時の宮内省御用達で、鉄道省における列車食堂も運営していた。現在も東京都港区元赤坂などで西洋レストランとして営業中。また、大膳寮は、調理器具から食器類までを列車に持ち込むほどの気の入れようだった。

溥儀皇帝は、東海道本線の沼津~静岡駅間を走行中に「午餐(ごさん、昼食)」を召し上がった。その時のメニューが残されており、「鶏清羹(鶏のコンソメスープ)」「車海老添鱚洋揚(車エビ添えキスの洋風揚げ)」「雛鶏酪煎(ひなどりのクリーム煮)」「蔬菜(あおもの野菜)」「凍菓(こおりがし/アイスクリーム)」「後段(ごだん/酒肴の提供)」だった。そこには同席者はなく、おひとりでの食事だったという。

車中では随時、「茶菓(支那茶等/原文ママ)」が提供され、お付きの人も多人数ゆえ、一般型の食堂車を利用できない人もいた。このため、自席で食べる駅弁として桃中軒の日本式弁当を沼津駅で積み込んだ。創業1891(明治24)年の桃中軒(とうちゅうけん)は、現在もJR沼津駅やJR三島駅で駅弁を販売している会社で、本社は静岡県沼津市にある。

国賓用食堂車で出された「午餐」のメニュー=資料/宮内公文書館蔵

二度目の来日時のメニューは「謎」のまま

1940(昭和15)年6月26日、当時の”紀元2600年の慶祝行事”にあたり、二度目の来日を果たした。当初は、5月に来日する予定だったが、ある皇族(明治天皇第6皇女子、竹田宮恒久王妃昌子内親王)が亡くなったため、ひと月延期されたものだった。横浜港に上陸した一行を、昭和天皇の長兄である秩父宮雍人(やすひと)親王が出迎え、国賓用展望御料車を連結した御乗用列車で東京駅へと向かった。東京駅のプラットホームでは、昭和天皇が出迎えた。この日、東京駅は一般旅客の利用が中止された。東海道線は新橋駅発着となり、山手線、京浜線は東京駅を通過させ、利用者は神田駅、もしくは有楽町駅で乗り降りさせるという物々しい警備体制がとられた。

一行は7月2日には、国賓用食堂車を連結した御乗用列車で、京都へと向かった。列車内での給仕は、国賓用食堂車、一般形食堂車ともに日本食堂が担当したが、残念なことに召し上がられた昼食のメニュー類は一切記録としては残されていない。残念ながら、何を食べたのかはわからないが、車中では随時、茶菓の提供が行われ、夏場ということもあり冷紅茶や冷菓子が提供されたことだけは記されていた。

東京駅で溥儀皇帝を出迎える昭和天皇。右端は昭和天皇の長弟である秩父宮雍仁親王=1940(昭和15)年6月26日、写真/宮内公文書館蔵

文・写真/工藤直通

くどう・なおみち。日本地方新聞協会皇室担当写真記者。1970年、東京都生まれ。10歳から始めた鉄道写真をきっかけに、中学生の頃より特別列車(お召列車)の撮影を通じて皇室に関心をもつようになる。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物を通じた皇室取材を重ねる。著書に「天皇陛下と皇族方と乗り物と」(講談社ビーシー/講談社)、「天皇陛下と鉄道」(交通新聞社)など。

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