失態に気づいた瞬間、最も見られたくない相手が目の前に
さて、通常私はこうした起き抜けの顔で何をするかというと、とりあえず大まかにヒゲを整え、頭髪にハンド・シャワーを浴びせかけてクセ抜きをし、愛犬パンチ君と散歩に出る。たとえ犬の散歩といえども、そのくらい見栄は張るのである。もちろん装いもそれなりに、たとえばポロシャツとジーンズ、スニーカーぐらいのなりはする。
ところが一昨日のこと、寝起きでリビングに行くと「おはようナイスディ」にてめえが出演していた。しかもほんのちょっと映るのかと思って見ていたら、えんえん20分もの大編集をして下さり、しまいには雪国のイメージ・フィルムつきで拙著『鉄道員(ぽっぽや)』の朗読までして下さるという念の入れよう、有難さに思わず涙して、かなた東方のお台場に向かって深々と頭を垂れたほどであった。
それがまずかった。何となく感動さめやらぬまま、寝起きのなりでパンチ君の散歩に出てしまったのである。
私の場合、深い感動は必ず深い自省と思惟を喚起する。で、自分がどのような顔で歩いているかなどまったく気付かず、ダメ押しの販促についてとか、印税の勘定とか、来期の予定納税のこととか、ネクスト・ワンの小説のプロットとかをかなり真剣に考えていた。なにしろ思惟と自省のあまり、パンチ君がどこでクソを垂れたのかも気付かぬほどであった。
みちみち行き合ったご近所の奥様がハッとした顔をしたが、私は意に介さずいつも通りの如才ない挨拶をした。彼女がはたして「おはようナイスディ」を見ていたかどうかは知らぬが、それとは関係あるまい。毛虫をくわえた火炎太鼓が犬を連れて歩いていれば、誰だって愕(おどろ)く。
私がおのれの失態にようやく気付いたのは、住宅地をいいかげん歩き回った末であった。どうやらテレビを見たらしいお年寄にしみじみと、「お疲れのようですなあ」と言われたのである。
そこで初めて我に返った。頭髪は歩く護摩壇であった。鼻の下の毛虫は上唇にまで垂れ下がっており、そしてあろうことかボロ雑巾のごとき甚兵衛を着、素足にぺらぺらの雪駄をつっかけていた。
ミエっぱりの私は青ざめた。とりあえず犬とともに走った。主人のなりがよければ犬まで器量よしに見えるのだが、こっちが護摩壇では心なしか犬もみすぼらしく見えるのであった。
自宅ちかくの公園のほとりまできて、愕然と立ちすくんだ。息せききって人目を逃れようとする私の目の前にタクシーが止まり、いきなり担当編集者のF社H女史が降り立ったのである。
最悪の事態であった。相手は最も見栄を張らねばならぬ文芸編集者。しかも彼女は「著者初の恋愛小説」を、うっとりと作って下さった人物であった。私は彼女の前ではこの3年余りも完璧な見栄を張り続けてきたのである。
「見たな」
と私は言った。一瞬、脳裏を殺意がよぎった。
「は……なにを……ですか?」
と、女史はそらとぼけた。しかし明らかにその表情は、見てはならぬものを見てしまったという当惑に満ちていた。
「たのむ。このことは決して口外しないでほしい」
「何のことでしょうか……」
「君の誠実さにはつねづね感謝している」
「ですから、何のこと?」
「たのむ。見なかったことにしてくれ」
「はあ……」
こういう次第であるから、もちろん会話はそれきり終わった。帰宅したのち、私は身じたくを整え、素知らぬ顔で彼女と打ち合わせをした。
その後、女史が私の正体を誰かにバラしたかどうかは知らない。しかし、もし何ら気に止めてもいなかったら―—この想像はもっと怖ろしい。
(初出/週刊現代1997年9月27日号)
浅田次郎
1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。