バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第113回は、「寝起きについて」。
自衛隊での生活で完成した体内自動起床装置
自慢じゃないが私は寝起きがよい。
いや、自慢である。自慢してよいぐらい寝起きがよいのである。どのくらいよろしいのかというと、生れてこのかた目覚まし時計というもののお世話になったためしがない。
床に就く前に、明日は何時に起きるぞと誓い、さらにちょっと恥ずかしいけれど、枕さんに顔を伏せて、「枕さん枕さん、あした6時に起きます。どうか起こして下さい」と、お願いをする。と、あらふしぎ、前後5分とたがわずにバッチリと目が覚めるのである。ちなみに私のこの習性は、いかな寝不足の折にも有効であり(たとえば5時に寝て6時に起きるという場合にさえ)、しかも「6時15分」とか「6時ちょっと前」とかいう微妙な指定も利く。
自分でもふしぎに思う。まさしく体内に自動起床装置を隠し持っているとしか考えられない。
なおふしぎなことには、ただその時間に目が覚めるばかりではなく、目覚めたとたん一瞬にして、心身ともに正常な機能を開始する。まどろみというものを知らんのである。
たとえば、いま書いているこの原稿も起床と同時に書き始めた。まさしく「起稿」と言えよう。
若い時分にはガバッとはね起きたなり突然、腕立て伏せ、屈(かが)み跳躍運動等を開始して同衾(どうきん)の女性をおののかせたものであるが、多少体力の衰えた今日では、むしろ都合が良い。
そっとベッドを抜け出し、モーニング・コーヒーを淹れ、瞼にくちづけをして、「おはよう。キミの朝だよ」、とか何とか言う余裕がある。
なおこの際、「あなた、寝起きがいいのね」と言われても、「もちろん。元自衛隊だからな」、などという種明かしは決してしてはならない。すかさず、こう答える。
「ずっと、キミの寝顔を見ていたんだ」
「いやン、はずかしい」
と、シーツで顔を被おうとする手を制して、やさしくモーニング•キス。で、笑いを消した真顔で言う。
「キミは素顔がいい」
ともあれ、寝起きのよさは私の特技である。
作家のアイデンティティーを脅かす冗談はさておき、なぜ私はかような特性を身につけたのであろうか。
私の生家はクソ忙しい商家であり、口やかましい祖父母の支配下に大勢の住み込み店員が起居していた。これがまず第一の理由であろう。商家の1日は、「やいやい、お天道様(てんとさま)はとうに上がっちまってるぞ!」などという祖父の大声で始まったのである。
ほどなく、てて親が不渡をとばし、家は没落した。親類の家に預けられた私は、周囲に気をつかっていっそう寝起きがよくなった。さらに何だかんだあって、15の齢からアパートを借りて独り住まいを始めた。時間は自主管理せねばならないので、もっと寝起きがよくなった。
高校時代は主として麻雀屋でアルバイトをしつつ自活した。徹夜麻雀の賄(まかな)いをし、メンバーの揃わぬときは卓につく。こういう生活をしていると、瞬時に目覚めることができなければ体が持たない。かくて私は、今日編集者どもが眉をひそめて噂するところの、「浅田さんはいつでもどこでも誰とでも眠る」という人格を身につけたのであった。
自動起床装置が私の体内に完成したのは、もちろん自衛隊生活においてである。
軍人は万国共通のカリキュラムにより、日々の生活をすべてラッパにより制御されている。わが自衛隊は旧帝国陸軍以来の伝統に従い、午後10時には消灯ラッパで無理無体に寝かされ、朝6時には雨が降ろうが槍が降ろうが、起床ラッパではね起きる。
起床後ただちに営庭に集合し、点呼を受ける。そして目覚ましに、腕立て伏せや屈み跳躍運動を行う。
また、ときには「非常呼集訓練」なるものが何の前ぶれもなく行われる。防大出身の若い将校が部隊当直についた夜などが1番ヤバいのであるが、真夜中に突然ラッパが鳴り、「起床!総員起こし!ただちに甲武装で舎前に集合!」、と放送がされる。
ちなみに「甲武装」とは、そのまま戦に行ける完全軍装のことである。整列後には綿密な装具点検が行われる。なにしろ「そのまま戦に行ける」格好でなければ非常呼集訓練の意味がないから、鉄カブトの紐、半長靴(はんちょうか)のはき方、小銃の手入れ、水筒の水まで検(しら)べられる。
連隊は6個の中隊からなり、中隊はおおむね7つの営内班で構成されているので、集合の遅れや装備の不備は直属上官から厳しく指弾される。
そのほかにも、たびたび回ってくる警衛や不寝番、古参隊員には当直勤務も課せられる。どの仕事も瞬発的に目覚め、とたんに正常な心身が機能しなければ務まらない。
かくて作家生活にはこの上なく便利な自動起床装置は、私の体内に完成を見たのであった。