バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第123回は、「三たび巨頭について」。
フランスにはなくてイタリアにある驚きの理由
帰国後1週間がたとうというのに、書斎はわけのわからんおみやげで地獄のような有様である。
お買物マニアである私は、決してこのようなことにならぬよう、旅行中みずからをかたく戒めていたのであるが、旅程なかばで我慢ができなくなり、とうとうゴールドカードがパンクするほどの大買物をしてしまった。
例によって帰国後、荷を解いてみればその大方はどうでも良いものばかりであった。とりちらかった書斎のただなかで、うんざりと原稿を書いている。
そこで、フィレンツェとヴェネツィアにおける「お買物爆発」の状況を報告しようと思ったのだけれど、厭世観に捉われるとヤバいのでやめ、前向きに書くこととする。
さて、あまたのお買物の中で、心から納得の行くものがひとつだけある。
帽子である。この点については、本稿を通読されている方、あるいは既刊2巻をすでにお読みの方は、がぜん興味を持たれることであろう。
私は巨頭である。エラいのではなく、頭がデカい。したがって、イタリア旅行に際してはひそかな目論見(もくろみ)があった。
頭周62センチという巨大な帽子は、国産品には存在しない。昨年、奇跡的にカナダ製ステットソンのそれを発見し、購入したのであるが、パナマ帽をいうものは一夏かぶり続ければ腐ってしまう。汗とオヤジアブラがしみこんで、すさまじい匂いを放つのである。
そこで、この旅の間に必ずや新品を買おうと闘志を燃やしていた。
以前にも書いたが、かつてひそかにフランス在住の友人に「62センチのパナマ」を依頼したところ、こんな返事を受け取っていた。
「あちこち探しましたが、パリにはありません。イタリアにはあるかもしれないと帽子屋さんが言っていましたので、そちらに聞いたらいかがでしょう」
そう、私はそのイタリアに行くのである。
手紙を受け取ったときには、なぜフランスにはなく、イタリアにはあるのだろうと思った。だが、パレルモの飛行場に降り立ったとたん、その謎は解けた。
乗継ぎのミラノではあまり感じなかったのだが、南部イタリア人はおしなべて顔がデカく、頭も異様にデカく見えたのである。
なるほど、これはもしや、と私は思った。パレルモ市郊外のホテルに向かう道すがら、私は目を皿のようにして街路を注視していた。同行の編集者は、早くも私が意欲的に取材を開始したと喜んだことであろうが、実はそうではなかった。私はシチリアの男たちの巨顔巨頭を確認し、期待し、感動し続けていたのであった。
しかも頼もしいことには、45歳ぐらいとおぼしきイタリア人は、みなハゲでデブで、ヒゲを生やしているのであった。そのうえ巨頭とくれば、私が歓喜したのも無理はない。
これは必ずある。絶対にある、と私は思った。問題はガイドと編集者の目を盗んで、どこで帽子屋に入るか、である。もとより編集者は私の重大なるコンプレックスであるところの巨頭を知っている。もしかしたら勤勉なガイドも、「勇気凜凜ルリの色」を読んでいるかもしれない。だとすると、あえて「帽子が欲しい」などとは、口がさけても言えない。
以後2日間、私は恥をかかずに帽子を買う方法を模索した。