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そのとたん、夢にまで見た一言を大声で叫んだ!

チャンスは3日目に訪れた。シチリアの避暑地、タオルミーナのウンベルト通りで、私は巨大な帽子をショウ・ウィンドウにかけ並べたブティックを発見したのである。

タオルミーナは優雅なリゾートであるから、何となくシャレも許されちまうような気がした。万がいちサイズが足らなくても、さほどの屈辱感は味わわずにすみそうであった。

で、私はショウ・ウィンドウの前に足を止め、さりげなく、心してさりげなくこう言った。

「ああそうだ。帽子とかも買いたいな」

言ったとたん、私はシマッタと思った。一瞬、同行の2名の会話が途絶えたのである。振り向くとガイドは俯(うつむ)いて笑いを噛み殺しており、編集者はものすごく気の毒そうな目で私を見つめていた。

考えに考えた末の言葉であったのだが、私の微妙な心の動きを、彼らは瞬時にして知ってしまったのであった。そういえば、私がその店の前に立ち止まったのは、横目でショウ・ウィンドウを見ながら行きつもどりつしたあげくの果てであった。

いっそのこと、「かくかくしかじか私はご存じの通り巨頭なので、ぜひイタリアでパナマを買いたい。お付き合い下さい」と言えばよかった。

「あー、そうですね。そうしましょう、そうしましょう」

と、編集者はしらじらしい感じで言った。

「な、そうだよな。陽射しも強いし、先も長いことだから」

「そうそう。いいのがなかったら、やめましょうね」

「うん。いいのがなかったら、やめよう」

平静を装ってはいたが、私たち3人の間にはこのうえなく緊密な空気が流れていた。

ただの買物ではない。私はこの買物に、おのれのハンデキャップの克服を賭けているのである。おそらく編集者は、イタリア旅行における私の精神状態が、この3日目の買物によって決定づけられるであろうと予測しており、当然通訳者たるガイドには天王山のプレッシャーがかかったことであろう。

店に入ると、いかにも商売ッ気たっぷりのおばさんが私たちを迎えた。買物好きの日本人はどこへ行っても歓待されるのである。

「ボルサリーノの、パナマを。サイズは……」

みなまで聞かずに、いや私にサイズを言わせずに、ガイドは流暢なイタリア語で意思を伝えた。彼は愛読者にちがいないと、私は確信した。

はたして、おばさんは愕(おどろ)かなかった。

東京の百貨店では、「62センチ」と口にしただけで売子が笑うのであった。私は希望を持った。

「おい、何て言ったんだ?」

「……1番大きいものを、と。あ、す、すみません、ボス」

「……いや、それでいい。俺に気をつかうな。結果は問わない。しかし君の努力と誠意とは認めよう。グラッツェ、シニョール」

「もし万がいち……」

「言うな。その先は言うな。いいものがなければ、俺はこの店を去る。いいか、シニョール。その際はタオルミーナで見たことを誰にもしゃべるな」

「スィー、ボス。シシリーの掟(おきて)に賭けて」

やがて、おばさんは「ペルファヴォーレ(どうぞ)」と愛想をふりまきながら、私の手にボルサリーノのパナマを渡した。

デカい。これはデカい。たしかな量感を捧げ持ちながら、私は同行者たちと目を見交わした。

勝負の一瞬であった。額の脂汗を拭って巨大な帽子を冠(かぶ)ったとたん、私は大声で、生れてこのかた1度も言ったことのない言葉を、夢にまで見た一言を叫んでいた。

「デカすぎる!もうひとつ下のサイズを!」

同行者たちは一斉に、「ブラボー!」と歓喜の声を上げた。

やはりパリからの手紙にあった通り、イタリア人は巨頭だったのである。

おばさんは、なぜ私たちがそれほどまで喜ぶのだろうとふしぎな顔をしていた。25万リラの代金を私が快く支払ったのは言うまでもない。ここだけの話であるが、私が邦貨に換算して1万円以上の品物を、値切らずに買うことはマレである。

ウンベルト通りで買ったボルサリーノは、成り上がりの巨頭をやさしく被い隠してくれた。

バチカンに着いたら、この帽子を胸に当てて神に感謝しようと思った。そしてできることなら、この帽子が腐る来年の夏には、新しい物語と新しいボルサリーノを購(あがな)うために、ここを訪れようと思った。

(初出/週刊現代1997年6月28日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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おとなの週末Web編集部 今井
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