浅田次郎の名エッセイ

万馬券に巨額の課税が!? 怯えた浅田次郎がたどり着いた、納税界の“解脱”

バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。 この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第134回は、「解脱について」。

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バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第134回は、「解脱について」。

アメリカのカジノではがっつり税金をとられた

昨年の稼ぎをあらかた国庫に納めてしまい、あまつさえヤケクソで挑んだアトランティック・シティのカジノでもしこたま税金を取られ、失意のうちに帰国した週末、私はまた金持ちになった。

第2回東京競馬5日目、第11レースの青葉賞において、馬番連複19540円の万馬券をモロに的中させたのである。

どの程度のモロであったかは言わない。言いたいけど言わない。言ったとたんにきっと税務署員が来て、税金を払えと迫るにちがいないと思うからである。

ともかく、もういっぺんアトランティック・シティのカジノに挑戦できるぐらいの儲けであった。

元来「嘆きは噛みつぶし、歓喜は分かち合う」タイプのよい性格である私は、こういうときたいてい大騒ぎをする。万歳をしながらスタンドを駆け回るぐらいのことはする。しかし、このときばかりはさすがに歓喜の表現を自粛したのであった。

法的にいえば、競馬の儲けは立派な所得であり、当然課税の対象となる。この際ハズレ馬券の購入代金は経費として認められないから、本来はなにがしかの納税義務があるのである。ただ、そんなことは誰もしていないだけだ。

アトランティック・シティでの学習効果により、万馬券を的中させたとたん私はこう考えたのであった。以下、そのときの私の懸念を列挙する。

(1)馬券所得の税率はいくらだか知らんが、アメリカのカジノで国税30パーセント、州税3パーセントを徴収されたのだから、たぶん日本では国税50パーセント、地方税15パーセントぐらいは取られるであろう。たまらん。

(2)徴税の原則は「取りやすいところから取る」であるから、カジノでいうところのジャック・ポット、すなわち競馬でいうところの万馬券的中者が、実質的に課税対象者となるのではなかろうか。

(3)幸い今まで「馬券課税」の憂き目に遭ったためしはないが、国の財政も厳しい折であるし、こういう収税方法が強化されても何らふしぎはない。しかも季節的に税務署はヒマであろう。

(4)ここ2週にわたって、私は「週刊現代」誌上に税法に対する不満を述べている。恨みを買っているおそれがあり、また多少の知名度もあるので「見せしめ」「血祭り」の危険がある。

(5)中央競馬は農水省の管轄下にある国営事業であり、その収益は国庫に納められる。アイデンティティーにおいてこの課税法に大蔵省が関与することはむしろ自然であろう。

――と、さまざまの懸念を考えめぐらせば、まさか万歳をする気にもなれず、とっさに換金することにさえ身の危険を感じた。

そう思うと自動払戻機の隣にポツンと口を開ける大口払戻窓口が、罠のように見える。そこに当たり馬券を提示したとたん、待機していた税務署員が現われて、

「おめでとうございます。つきましては税法に基づき、的中金額の50パーセントを国税に、15パーセントを地方税として徴収し、差額の35パーセントを払い戻します」

などと言いそうな気がした。

そこで私は、即座に換金することをやめた。万馬券が出た直後は、税吏もてぐすね引いて待ち構えているであろうと思ったのである。

熱いコーヒーを飲みながらこう考えた。

(1)換金は明日の日曜日、混雑する一般席の窓口で実行する。

(2)帽子をかぶり、サングラスをかけ、マスクをする。

(3)無事に課税を免れても、この事実をけっしてエッセイのネタになどしない。むろん運悪く課税されても。

――こうして私は、当たり馬券をポケットに収めたまま帰宅した。

65パーセントの収税におびえる作家を襲ったさらなる不幸とは

金持ちになったのは嬉しかったが、歓びを顔に出してはならなかった。勘のよい税吏が、ゴール直前の私の大声――「そのまっまー!残れェー!吉田ーッ!追えー、追えー!よおっし、できたっ!」を耳にしており、ひそかに尾行しているかもしれぬと考えたからである。

家に戻ってからも、私はひたすら沈鬱な表情を装った。家族は私がさぞかし大敗を喫したのであろうと思ったのか、腫(は)れ物にさわるように扱った。

壁に耳あり障子に目あり、である。ゴミ捨て場を共用しているご近所に、税吏が住まっているかもしれぬ。娘の予備校の友人が、税務署員の子供かもしれぬ。老母の茶飲み友達が、国税局OBであるかもしれぬ。

食事中に家人が、

「お狙いになってらしたメジロランバート、いかがでした」

と訊いた。とっさに私はギョーザを噴いて取り乱し、しどろもどろで、

「ま、見るべきところはあったな」

などと曖昧(あいまい)な答弁をした。

言いたい。よくぞ聞いてくれた、俺の狙ったメジロランバートは、一勝馬の身でありながら並いるオープン馬を敵に回して、2着に来たのだ。そして俺は、タヤスアゲインVS.メジロランバートの万馬券を、しこたま取ったのだ。その馬券は、ホレここに、このワイシャツの胸のここに、ホレホレホレ、あるのだよ!

言いたいけど、言えなかった。

食後、サクサクと書斎に戻り、施錠を確認したのち税理士に電話をした。

「もしもし、センセ? 浅田です」

「はい……また、なにか?」

巨額の納税が確定してよりこのかた、私は夜な夜な税理士に呪いの電話をかけ続けているのであった。

「実は、きょう……」

かくかくしかじかと、私は本日の出来事と私の懸念について、ありていに話した。

(ううむ。それは正しいご判断でした。とかく税金は取りやすいところから――)

とか言うかと思いきや、税理士はカッカッカッと高笑いをしたのである。

「あの、浅田さん。ちょっとノイローゼじゃないですか。そりゃ、くやしいのはわかります。税制におけるグローバル・スタンダードのご主張も、作家生活における30年間平均課税適用の論理も、むろんわからんわけじゃありません。しかしね、当たり馬券に課税されたという事例は聞いたことがありません。ましてや大口払戻窓口に税務署員が待ち伏せしているなんて、あなた、そりゃ妄想ですよ。大丈夫ですか?ちゃんと睡眠をお取りになってますか?」

ノイローゼではないと思う。アトランティック・シティでの出来事以来、税金は私にとっての恐怖そのものなのである。少くともこんな生活を続ければ、私の余命は長く見積もってもあと5年、という気がするのである。ともかく、激務を物理的にサポートするだけの金の余裕がない。いずれ税金に殺される。

あくる日、私は税理士の言葉を信じて堂々と当たり馬券を換金した。

ちょっと怖かったけれど、やはり大口窓口に税務署員はいなかった。もしかしたら日曜日は休みなのかもしれないし、たまたまその窓口にはいなかったのかもしれないが。

ところで、予期せぬ悲劇はその日に起こった。

私は競馬場に行くとき、必ず一定の所持金を決めている。そしてその金額は性格に応じて案外と少ない。つまり、収税の懸念さえなければ、私は前日の最終レース終了後に的中馬券をすべて換金し、あくる日は再び規定の所持金を持って出かけたはずなのである。

日曜日の朝一番で換金をした私は、持ち慣れぬ金にすっかり目が曇り、分不相応の勝負をくり返した結果、オケラになった。

こうして私は、65パーセントの懸念のために、100パーセントの納税をしてしまったのであった。

わかった。今後は私自身の幸福のために、納税は国民の義務だと信じよう。

この心境は、一種の解脱である。

(初出/週刊現代1998年5月30日号)

『勇気凛凛ルリの色』浅田次郎(講談社文庫)

浅田次郎

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。

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