青森県青森市と北海道函館市を結ぶ鉄道といえば、青函トンネルを走る北海道新幹線であるが、2024年からさかのぼること36年前までは、青函トンネルは存在していなかった。そこには、“鉄道路線の一部”として津軽海峡を航行する「青函連絡船(鉄道航路)」があった。明治以来の歴代天皇は、北海道へ渡っているが、青函連絡船の利用はあったのか、いつの時代から青函連絡船は就航していたのか。明治、大正、昭和の天皇と青函連絡船の歴史に迫ってみたい。
画像ギャラリー青森市と函館市を結ぶ鉄道といえば、青函トンネルを走る北海道新幹線であるが、2024年からさかのぼること36年前までは、青函トンネルは存在していなかった。そこには、“鉄道路線の一部”として津軽海峡を航行する「青函連絡船(鉄道航路)」があった。明治以来の歴代天皇は、北海道へ渡っているが、青函連絡船の利用はあったのか、いつの時代から青函連絡船は就航していたのか。明治、大正、昭和の天皇と青函連絡船の歴史に迫ってみたい。
※トップ画像は、停泊中の青函連絡船=1987(昭和62)年5月4日、青森桟橋(青森市の観光物産館アスパム展望台より写す)
はじめて津軽海峡を渡った天皇
1876(明治9)年、この当時はまだ青森まで鉄道は開業しておらず、もちろん定期航路(旅客線)もなかった。人々は陸路を馬や人力車を利用して移動していた。同年7月、明治天皇は奥羽巡幸として東北地方を訪れた。その際に、青森から帆船の御召船「明治丸」に乗船し、はじめて津軽海峡を渡り函館の地へ降り立った。これが、歴代天皇として初めての渡道であった。帰路は函館港から横浜港を経由し7月20日に帰京したが、これにちなんでできた祝日が「海の日」である。明治天皇は、1881(明治14)年8月にも北海道を訪れ、その時は御召艦(軍艦)「扶桑(ふそう)」で青森港から小樽港へと向かった。
大正天皇も、1911(明治44)年8月から9月まで北海道を訪れ、このときは青森までは鉄道を利用し、そこから御召艦(軍艦)「香取」に乗艦し、函館へと向かった。帰路は、室蘭から御召艦(軍艦)「香取」に乗艦し、青森を経由し鉄道で帰京された。
昭和天皇は、皇太子時代を含めて1922(大正11)年7月〔軍艦「日向」/往路:青森→函館〕、1936(昭和11)年10月〔軍艦「比叡」/帰路:小樽~横須賀〕と二度、津軽海峡を渡っている。
“津軽海峡越え”は政府直轄の船舶で
青函連絡船が誕生したのは1908(明治41)年のことで、当時の帝国鉄道庁(のちの鉄道省→国鉄)が、その運営を行なっていた。しかし、前述のとおり天皇の“津軽海峡越え”は政府直轄の船舶に委ねられていた。
では、いつから青函連絡船を利用するようになったかというと、戦後になってからだ。戦前は、戦意高揚の象徴とされた軍艦に乗船することが第一とされ、民間船に天皇が乗船することなど、考えられなかったのだろう。
昭和29年夏、はじめての青函連絡船
歴代天皇が、初めて青函連絡船を利用したのは1954(昭和29)年8月のことだった。昭和天皇と香淳皇后は、“全国御巡幸”の最後の訪問先となった北海道へ向かうため、上野駅からお召列車で青森駅へ到着し、そこから函館まで青函連絡船「洞爺丸(とうやまる)」に乗船した。
8月7日、青森駅に到着した昭和天皇と香淳皇后は、青森桟橋を14時に出航し、函館へと向かわれた。実は、1947(昭和22)年8月の青森県巡幸の際にも、青森駅へ到着した昭和天皇は青森桟橋へ移動し、青森駅長と函館船舶管理部長から“青函連絡船”の説明を受けられていた。
昭和天皇と香淳皇后は、北海道からの帰路では日本航空のお召機を利用されたため、連絡船への乗船は往路の一度だけであった。なお、お召船となった「洞爺丸」は、1954(昭和29)年9月26日の台風15号による海難事故で、函館湾内にて座礁、転覆し、沈没した。
その後の昭和天皇と香淳皇后の渡道は、1961(昭和36)年と1968(昭和43)年、1972(昭和47)年にも行われたが、いずれのときも往復ともに空路であった。そのため、青函連絡船のご利用はない。1988(昭和63)年3月に青函トンネルが開通すると、鉄道航路は廃止となった。昭和とともに「青函連絡船」という“船旅”は、終わりをとげた。
文・写真/工藤直通
くどう・なおみち。日本地方新聞協会皇室担当写真記者。1970年、東京都生まれ。10歳から始めた鉄道写真をきっかけに、中学生の頃より特別列車(お召列車)の撮影を通じて皇室に関心をもつようになる。高校在学中から出版業に携わり、以降、乗り物を通じた皇室取材を重ねる。著書に「天皇陛下と皇族方と乗り物と」(講談社ビーシー/講談社)、「天皇陛下と鉄道」(交通新聞社)など。