1968年にデビューした117クーペはイタリアデザイン界の巨匠、ジョルジェット・ジウジアーロ氏がデザイン。その美しいデザインをそのまま市販化するためのいすゞの意気込みは物凄いものがあります
画像ギャラリー今でこそ世界で確固たる地位を築いている日本車だが、暗黒のオイルショックで牙を抜かれた1970年代、それを克服し高性能化が顕著になりイケイケ状態だった1980年代、バブル崩壊により1989年を頂点に凋落の兆しを見せた1990年代など波乱万丈の変遷をたどった。高性能や豪華さで魅了したクルマ、デザインで賛否分かれたクルマ、時代を先取りして成功したクルマ、逆にそれが仇となったクルマなどなどいろいろ。本連載は昭和40年代に生まれたオジサンによる日本車回顧録。連載第37回目に取り上げるのは、いすゞ初の高級パーソナルクーペの117クーペだ。
かつては御三家と呼ばれたいすゞ
今では世界有数のトラックメーカーとして有名ないすゞは、かつてはトヨタ、日産とともに”御三家”と呼ばれた時代もあった。ちなみにいすゞという車名は、三重県の伊勢神宮の境内に沿って流れる五十鈴川に由来している。いすゞは1917年に創業後、長きにわたりトラックの生産を手掛けてきたが、1953年に乗用車生産に進出。イギリスの自動車メーカー、ヒルマンのミンクスのノックダウン生産、ライセンス生産を経て次なるステップは自社開発の乗用車生産だった。
フローリアン登場
いすゞ初の完全オリジナル乗用車は、1963年のベレル。いすゞの最初にして最後の高級セダンで、1967年まで生産された。日本車初のディーゼルエンジンを搭載した乗用車としていすゞの技術力の高さをアピール。その間にベレットを登場させ、いすゞの乗用車のデザインを運命づける4ドアセダンのフローリアンを1967年にデビューさせた。
フローリアンの登場はベレルの消滅時期と重なるが、ベレルが高級セダンだったのに対し、フローリアンはファミリーをターゲットにした中型セダンだった。いすゞはフローリアンを登場させるにあたり、そのデザインをイタリアのデザインスタジオのカロッツェリアギアに依頼。1963年登場の日産ブルーバード(410型)はそのデザインをイタリアのピニンファリーナが手掛けているが、乗用車メーカーとして熟成していないいすゞがカロッツェリアギアにデザインを発注するのは自然な流れだった。
フローリアンをベースに高級クーペを開発
乗用車においてベレットで一定の知名度を得たいすゞの次なるターゲットは自社を代表するクーペモデルの開発だ。いすゞはブランドイメージを高めるためには高級クーペが必要と考えた。しかし、プラットフォームを一から新開発する財政的余裕がないため、ファミリーセダンのフローリアンをベースとすることが条件となっていた。そのフローリアンをベースに開発されたのが117クーペだった。
ジウジアーロとの運命的な出会い
いすゞは117クーペを開発するにあたり、フローリアンでの実績もありデザインをカロッツェリアギアに依頼。そしてそこでジョルジェット・ジウジアーロとの運命的な出会いがあったのだ。ジウジアーロは1965年にイタリアのデザイン工房であるベルトーネを退社し、その後ギアに移籍。117クーペのデザインはジウジアーロが手掛けたことは有名だが、いすゞがギアにデザインを依頼したタイミングとジウジアーロが移籍したタイミングが合い、ジウジアーロがいすゞ117クーペのデザインを担当することになったのだ。
いすゞとジウジアーロの関係が良好だったのは、初代ピアッツァのデザインをギア退社後に独立してイタルデザインを起こしたジウジアーロに発注していることからもわかる。
ショーで絶賛されたデザイン
117クーペのプロトタイプともいえるモデルは1966年のジュネーブショーでワールドプレミアされた。ギア・いすゞ117スポルトとして出展されたパーソナルクーペは世界が大注目。当時のジウジアーロのデザイントレンドとなっていた繊細で柔らかなライン、丸目ヘッドライト、美しいサイドビューなどを117スポルトも踏襲していた。
同時期にジウジアーロがデザインを手掛けた、フィアットディーノクーペ、イソリヴォルタ、マセラティギブリなどとも共通するデザインテイストが見てとれる。
ギアとのコラボとは言え乗用車の世界では無名と言っていいいすゞが公開したクーペのデザインは1966年のトリノショーの目玉と言っていいくらいに評価が高く、その年のジュネーブショーの『コンクール。ド・エレガンス』(ドとエをつなげてデレガンスとも表記)で大賞を受賞。さらにはイタリアで開催された国際自動車デザイン・ピエンナーレに出品されて見事名誉大賞を受賞するなど、デザインが高く評価されたのだ。
反響の大きさにいすゞがビックリ
そしていすゞはジュネーブショーの翌年に開催された東京モーターショー1967にギアの名前を除き、イタリア語表記のスポルトを英語表記に変更して『いすゞ117スポーツ』として日本で初公開した。
筆者は1966年生まれだから、117スポーツが公開された時はタイムリーには知らないが、いろいろな文献を漁ったところ、初代トヨタセンチュリー、日産ブルーバード510などと並び117スポーツの注目度はかなり高かったようだ。
117クーペは日本専用モデルとして開発されていたため、欧州で評価されても日本で話題にならなければそのままお蔵入りもあったのかもしれない。しかし日本でも大反響。肝心の東京モーターショーでの反響の大きさが市販化の決定打となったという。
市販化への大きな壁
ショーモデルで絶賛されたデザインがいざ市販されてみると「なぜこうなった?」と首をかしげるようなケースは少なくない。デザインを手直しした結果、印象が大きく変わる、というのも珍しくない。ショーモデルはワンオフで生産性など考慮されていない。煌びやかに目立てばいいのだ。それに対し量産車はそうはいかない。
美しく世界的に評価された117スポーツのデザインだが、当時のいすゞにはそれをそのまま市販できるだけの生産設備も生産技術もなかった。どれだけ美しいデザインのクルマでも量産車として生産できなければ単なる作品、芸術品で終わってしまう。ジウジアーロも納得したうえで、生産性を考えてデザインが手直しされたというがそれでも量産化は難しいという結論だったという。
イタリアから職人を招聘
しかし、ブランドイメージを確立するために高級パーソナルクーペを切望していたいすゞの市販化に向けての執念は凄かった。いすゞとしては117スポルトの量産化のために新たに設備投資するというのは財政的に難しかった。ではどうしたか? いすゞはライン生産ではなく、ハンドメイドで外装を手掛けることに決定したのだ。117スポーツを量産するためにイタリアから多数の職人を呼び寄せた。この英断には今さらながら大拍手だろう。
ハンドメイドというと、金槌のような道具を使って鉄板をカンカンカンと叩いてボディを成型する、というマンガに出てきそうなものを想像するかもしれないが117の場合は、いすゞの工場のプレス機によりある程度までボディを製作し、職人が手作業で仕上げるというものだったらしい。しかし1960年代後半とは言え、日本メーカーでそんなクルマ作りをしているメーカーなど皆無だった。ハンドメイドゆえ数が作れず、初期では1カ月に作れるのは50台程度だったようだ。
車名の由来
量産化の壁もクリアして市販化が決定したいすゞの高級パーソナルクーペ。晴れて東京モーターショーの約1年後の1968年12月に正式デビュー。市販された時にはその車名は117スポーツではなく117クーペに変更された。
前述のとおり、117クーペはフローリアンをベースにクーペ化。フローリアンの開発コードネーム(呼称)が117セダンだったのに対し、117クーペという開発コードネームが与えられていて、それをそのまま車名にしたという。開発コードネームはメーカーによって通しナンバーだったり、個別に与えられたりとさまざまあるが、車両型式とは別物だ。117クーペの車両型式は、PA9系で、PA90、PA95などがある。
117という謎めいた数字の羅列も117に神秘性を加えるのにひと役買っていることを考えると、安直にフローリアンクーペとならなくてよかった。
開発コードネームが車名になったクルマ
117クーペと同じように世界的に見ても開発コードネームがそのまま車名になったケースは多くはない。国内外にどのようなクルマがあったのかを調べてみた。
■トヨタSAI(開発コードネームは”才”と”彩”からSAI)
■トヨタ86(開発コードネームはFT-86)
■ランチアラリー037(エンジンを開発したアバルトの開発コードネームがSE037)
■ヒュンダイTB(日本では韓国名のクリックがすでに商標登録されていたため開発コードのTB:THINK BASIC)
■ヒュンダイJM(日本では韓国名のツーソンの商標が取得できなかったため開発コードのJM:JOYFUL MOOVER)
走りの評価はイマイチ!?
話を117クーペに戻そう。1968年にデビューした117クーペのボディサイズは、全長4280×全幅1600×全高1320mmで1.6L、直4を搭載。このエンジンはいすゞ初のDOHCだった。1年後に1.8Lエンジンを追加するのだが、このエンジンは日本初の電子制御燃料噴射装置を装着したとして話題になった。トランスミッションはデビュー時に4MTで、後に5MT、3ATが追加された。
前述のとおり、プラットフォーム、パワートレーンなど基本コンポーネントをフローリアンと共用していたため、当時の雑誌などを見返しても117クーペの走りの評価はあまり高くない。しかし、高速巡行を得意とするグランドツーリング的な評価は高かったようだ。
新車価格は今の貨幣価値で1000万円オーバー
その一方で大人4人が快適に移動する快適性は考慮されていて、後席の両サイドには灰皿、リア用のヒーターダクトが用意されていてクーペながら後席の快適性をアピール。
そんな117クーペだが、ビックリするのがその価格。デビュー時の価格は172万円!! 117クーペの前年にデビューしたトヨタ2000GTの新車価格が238万円で今の貨幣価値で言えば2000万円クラスと言われているので、1000万円オーバーは確実だ。通常の2Lクラスのクーペの2倍程度の価格だったという。高価格となったのは、ハンドメイドだったことも大きく影響している。
マイチェンで量産化
前述のとおり117クーペはハンドメイドによって市販化することができたのだが、1973年のマイチェンを機にライン生産に切り替わる。1971年にいすゞはアメリカのGM(ゼネラルモータース)と提携。資金援助、技術サポートなどにより実現したのだ。
そのためマイチェン後のモデルもデビュー時同様に丸目だが、リアコンビが大型化されたほかプレスしやすいように変更されるなどデザインは変わっている。
マニアの間ではデビューからマイチェンまでのモデルは特別な存在で「ハンドメイド」と崇める一方、1回目のマイチェン後のモデルは「量産丸目」と呼んで区別している。マニアから言わせれば「まったく別物」となる。
そのマニアから話を聞くと、117クーペのパーツのなかでインテリアのパーツ、ウインカーレバーやスイッチ類が欠品していて、流用するものもないので壊れたら自作するしかないという。
賛否両論だった角目
117クーペは2度のマイナーチェンジにより3つの顔が存在する。前述のハンドメイド丸目、量産丸目のほか、1977年のマイチェンで角4灯に劇的変更。角目により精悍なフロントマスクとなったが、特別感はなくなった。
実際に最後のマイチェン時には117クーペの新デザインは否定的な意見も少なくなかったようで、自動車雑誌『ベストカー』の1978年6月号の誌面では、『デザインの改悪は許さない!!』というテーマで、117クーペユーザーといすゞ自動車が激論を交わすなど喧々囂々あったみたいだ。
そのほか117クーペのトピックとしては、リア部分を延長してシューティングブレーク化した117クルーザーをいすゞは開発していたが、市販化されなかった。理由は実用性を得た代わりに117クーペの美しさが損なわれたからだ。
日伊合作の自動車開発の成功例
117クーペは1968年にデビューして、1981年6月にピアッツァにバトンチェンジする形で生産を終えた。その直前の1981年2月にデビューしたのが初代トヨタソアラ。1960年代の名車が、その後の日本車クーペの象徴となる初代トヨタソアラとごく短い間だがリンクしたのは感慨深いものがある。
117クーペは約13年のモデルライフで8万5549台を販売。日本専売の高級パーソナルクーペとしてはかなり健闘したと言えるのではないか。特に最初期のハンドメイドは、クルマというよりも芸術作品と言っていい一台だ。
117クーペは、日伊合作の自動車開発の成功例として評価され、2014年に『日本車殿堂 歴史車』として選定された。
【いすゞ117クーペ主要諸元】
全長4280×全幅1600×全高1320mm
ホイールベース:2500mm
車両重量:1050kg
エンジン:1584cc、直4DOHC
最高出力:120ps/6400rpm
最大トルク:14.4kgm/5000rpm
価格:172万円(4MT)
【豆知識】
1962~1967年まで生産されたトヨタクラウン、日産セドリック、プリンスグロリアに対抗すべく開発されたいすゞの高級セダン。いすゞのオリジナル乗用車の第一弾モデルでもある。エクステリアデザインはイタリアのカロッツェリアギアが手掛けた。タクシー業界との関係もあって乗車定員は前後3人乗りの6人だったのも特徴だ。単なる高級セダンではなく、1963年の第1回日本グランプリで活躍し、いすゞの技術力の高さをアピールすることにも成功した。ただし、販売面ではそれほど爪痕を残せなかった。
市原信幸
1966年、広島県生まれのかに座。この世代の例にもれず小学生の時に池沢早人師(旧ペンネームは池沢さとし)先生の漫画『サーキットの狼』(『週刊少年ジャンプ』に1975~1979年連載)に端を発するスーパーカーブームを経験。ブームが去った後もクルマ濃度は薄まるどころか増すばかり。大学入学時に上京し、新卒で三推社(現講談社ビーシー)に入社。以後、30年近く『ベストカー』の編集に携わる。
写真/いすゞ、ベストカー