11月12日「洋服の日」に考える皇室とドレスの「政治的関係」

日本に洋装が根付いたのはなぜか。元東京新聞編集委員で皇室担当記者だったジャーナリスト・吉原氏が、皇族と日本に洋装を広める契機と国際政治のかつての背景を解説する。

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日本に洋装が根付いたのはなぜか。元東京新聞編集委員で皇室担当記者だったジャーナリスト・吉原康和氏が、皇族と日本に洋装を広める契機と国際政治のかつての背景を解説する。

※トップ画像は、宮内庁提供

女性皇族の中礼服として作られたドイツ製ドレス

11月12日は「洋服記念日」です。

東京都洋服商工協同組合が1929(昭和4)年11月24日に制定したもので、制定の由来は1872(明治5)年に布告された太政官布告令で洋服が儀礼時の定服になったことにちなむ。女子の洋装化は、明治天皇が軍服姿で登場する男子の洋装化から遅れること、15年と言われるが、今回は、鹿鳴館時代の1886(明治19)年ごろに製作された北白川宮妃富子のローブ・デコルテ(中礼服、霞会館所蔵)を取り上げたい。

鹿鳴館

大規模な修復作業を経て2024年5月、明治神宮ミュージアムで開催された「受け継がれし明治のドレスー明治天皇と華族会館(後期)」展で初公開されたので、ご覧になった方も少なくないと思うが、ローブ・デコルテといえば、新年の儀式で女性皇族が着用する礼服だ。

ローブ・デコルテを身にまとわれた愛子さま。(提供=宮内庁、2021年撮影)

戦後、明治政府の服装令が廃止となり、マント・ド・クール(礼服)が新年儀式から姿を消し、中礼服が女性皇族の第一礼装となったが、注目されるのは、富子妃の中礼服が明治天皇の皇后美子(のちの昭憲皇太后)の大礼服第一号とほぼ同時期に製作されたドイツ製のドレスであることだ。

洋服発祥の地といわれる横浜に建てられた記念碑

この中礼服は、北白川宮能久(よしひさ)親王妃富子が着用したとみられる宮廷ドレスで、1979(昭和54)年、北白川家から霞会館に寄贈されていた二領の中礼服のうちの一領だ。別の一領は明治末期の北白川成久親王妃房子が着用した中礼服で、2018年に開催された展覧会に展示されたが、富子妃のドレスはこれまで公開されておらず、存在そのものが一般に知られていなかった。経年の劣化により、裏地は形状をとどめないほど劣化が進み、全体的に損傷が著しいことから、今年で創立150年を迎えた「霞会館」の記念事業の一環として、2018年に京都市にある衣装修復工房「アトリエ後藤」に依頼し、ドレスの分解を伴う大規模な修復が行われていた。

霞会館が発行した図録(「明治天皇と華族会館―受け継がれし明治のドレス」)などから、修復された富子妃のドレスの概要をみてみよう。

富子妃の中礼服は袖無しのボディスと内部が3本の鯨骨付きのスカートからなるツーピースのドレスで、スカートは後ろを膨らませたバッスルスタイルとなっている。浅黄色、もしくはアクアグリーンともいえる絹地を用い、ドレスの前面には、麦の穂と雪玉のような花の模様が刺繍され、ビーズやリボンの飾りが付いていた。総重量は約2・5kg。ボディスの内側に付された刺繍ラベルから、ドイツ・ベルリンの裁縫師マックス・エンゲルの製作が判明している。

こうした特徴の多くは、今から28年前の1997年に霞会館の依頼を受けた日本女子大名誉教授の佐々井啓氏の調査でほぼ解明されているが、私が注目したのは、近年発掘されたドイツや日本の新聞記事などの文献資料から、ベルリンに美子皇后の大礼服が発注されたと同時に富子妃ら3人の皇族妃のドレスも注文されたとみられる点だ。

一つは、美子皇后の宮廷ドレス「大礼服」の完成を報じる1986年10月20日付のベルリンの新聞「ベルリナー・ターゲブラット」の記事で、皇后の大礼服と皇族妃のドレス三領を紹介しているが、その中で「水色の重たい平織りが使われている」「フロントスカートの二つの布切れは、刺繍された金の麦の穂先と高彫で織られたピンクの雪玉」などと富子妃のドレスの特徴と類似する記述がみられる。

ドレスとティアラに巨額の国家予算

美子皇后の大礼服は、首相兼宮内大臣の伊藤博文が1986年、ドイツ公使を務めた青木周蔵らを通じてベルリンの裁縫師のマックス・エンゲルに発注し、1987年1月1日の新年拝賀式に皇后が初めて着用したことが判明している。

『昭憲皇太后実録』によると、皇后の大礼服がベルリンに発注後の1986年8月、洋服調製費として美子皇后から有栖川宮熾仁(たるひと)、威仁(たけひと)、伏見宮貞愛(さだなる)、北白川宮能久の4親王妃に対しそれぞれ5000円が下賜されていた。この下賜金を原資に、有栖川宮威仁親王家では、ベルリンに中礼服を注文。威仁妃薫子(やすこ)の礼服代1万円(現代の価格にして約5000万円)の半額に充てたとされるが、北白川宮富子妃も同様にベルリンに中礼服を注文したとみられる。

次に1889(明治22)年の新年拝賀式で皇族妃らが着用したドレスの模様を伝える1989年1月2日付の「郵便報知新聞」の記事にも、富子妃のドレスの色は「浅黄」とあり、1986年にベルリンで製作された中礼服を着用した可能性がある。

ベルリンに発注した美子皇后の大礼服とテァラの値段は、総額15万4000円で、欧化主義の象徴とされた鹿鳴館の建設費(約18万円)に相当する。総理大臣の年収が9600円と言われた時代で、現代の貨幣価値に換算すると、少なくとも7億円以上にのぼる。

明治22年の新年拝賀式で皇族妃らの洋装の様子を伝える郵便報知新聞(宮内公文書館蔵)

皇室にドイツ文化を取り入れたワケ

皇后や皇族妃らの宮廷服やティアラ、宝飾品に巨額の国費が投じられた訳だが、それではなぜ、ドレスの調達先がモードの中心地であったフランスやイギリスではなく、ドイツだったのか。

ドイツ皇室を模範とする伊藤博文の皇室外交、いわゆる「宮中のドイツ化」と密接な関係はあるが、そればかりではない。

当時の日本は憲法をはじめさまざまな制度を導入する際にドイツを一つのモデルにしていたことは広く知られるが、背景には日本が幕末に欧米諸国と結んだ不平等条約の改正を目指し、交渉を有利に進めたいという思惑があった。
日本政府は当初、陸軍はフランス式、海軍はイギリス式をそれぞれ採用していたが、陸軍の軍制が明治20年前後にドイツ式に転換していくのも、帝国主義時代の国際情勢を反映した冷厳な選択の一つだった。

同時に、日本が西洋と同じ価値観を共有する近代国家となったことを証明するには、皇后が洋装化することが一番効果的と、伊藤博文は考えたのであろう。そうすれば、皇族妃や女官をはじめ皇室の藩屏である華族階級の婦人たちも洋服を着るようになるからだ。

ドレスと帝国主義。皇后を先頭とする宮中女子の洋装化は、単なるファッションではなく、国家の威信をかけた国策だった。

吉原康和(よしはら・やすかず)
ジャーナリスト、元東京新聞編集委員。1957年、茨城県生まれ。立命館大学卒。中日新聞社(東京新聞)に入社し、東京社会部で、警視庁、警察庁、宮内庁などを担当。主に事件報道や皇室取材などに携わり、特別報道部(特報部)デスク、水戸、横浜両支局長、写真部長を歴任した。2015年から22年まで編集委員を務め、宮内庁担当は、平成から令和の代替わりの期間を中心に通算8年。主な著書に『歴史を拓いた明治のドレス』(GB)、『令和の代替わりー変わる皇室、変わらぬ伝統』(山川出版)、『靖国神社と幕末維新の祭神たちー明治国家の英霊創出―』(吉川弘文館)など多数。

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