鉄道の「廃線」を巡る 【画像ギャラリー】上野公園は鉄道車両の防空壕 省線と京成本線の連絡線跡 #上野#鉄道 記事に戻る トンネルの入口に掲げられた細長い額・扁額(へんがく)には、右書きで「門臺東」と記されている。揮毫(きごう)は、京成電鉄の創立者である本田貞次郎氏によるもの=2003(平成15)年10月5日、東京都台東区上野桜木青線で示したのが、当時の省線と京成本線を結んだ連絡線=写真/国土地理院「空中写真」M372-47=1947(昭和22)年7月9日撮影に筆者追記芋坂跨線橋から見た連絡線跡。写真の奥に向かってゆるやかな傾斜地に造成され、省線と京成本線との高低差を解消させていた=2003(平成15)年10月5日、東京都台東区上野桜木JR(旧国鉄から継承)から用地を借り受けている台東区立芋坂児童遊園。公園内には、JRの線路を跨ぐ芋坂跨線橋があり、その橋脚の間隔は鉄道の線路跡そのものだ=2003(平成15)年10月5日、東京都台東区谷中京成本線と連絡線の接合部分。奥のトンネル開口部から続くコンクリート擁壁(ようへき)が、この場所だけ石積みに変わる。そして再びコンクリート擁壁になっていることからも、この石積み擁壁の場所が接合部だったのではないかと推測する=2003(平成15)年10月5日、東京都台東区上野桜木御隠殿坂跨線橋は、連絡線を通すため一時期、橋の一部が撤去された。橋の構造が手前側と奥側で異なっているのは、このためではないだろうか=2003(平成15)年10月5日、東京都台東区上野桜木 記事に戻る 上野公園の地下に鉄道の防空壕 レール幅が違う!戦争末期、京成本線が一時つながった路線とは