バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第81回は、「霍乱(かくらん)について」。
すべては体力の過信から始まった
1月12日払暁、とうてい正気の沙汰とは思えぬ年末年始の仕事をおえた。遅ればせながら明けましておめでとう、の気分である。
興奮もさめやらぬまま、書きとばした原稿を勘定してみると、何と650枚もあった。数を書きゃいいというものでもないが、44歳という年齢を考えれば、ようやったという気がする。
いつ年を越したのかは定かでない。家人の説によると、蒲団の中で寝ていたのは1月7日の晩だけで、クリスマス以降はずっと座椅子の上で「寝起き」していたそうである。
元自衛官の体力過信は怖ろしい。草を食(は)み野に伏して演習場を駆けめぐった四半世紀も前の日常を、あたかも昨日のごとくに考えているフシがある。
どうしてもその日までに仕事をおえねばならなかった。翌(あく)る13日から一泊二日の予定で箱根に行く。老母と兄と私との水いらずの旅は、40年ぶりのことであった。
同年配の読者の中には、こうしたご旅行をなさった方はけっこうおいでになると思う。老いた親と中年の子供らの、慰労と懐旧の旅。行楽というよりも一種の儀式であるから、旅先で憂いのないよう仕事は事前に片付けた、というわけだ。
さて、12日の早朝に座椅子から立ち上がった私は、脱稿に伴う営業仕事を丸1日かかって終わらせ、夜は本誌の新年会に赴き、深夜2時まで六本木界隈で馬鹿騒ぎをし、結局ほとんど眠らずに翌日、ロマンスカー車中の人となった。
何しろ40年ぶりの親子旅行であるから母も兄も大はしゃぎで、積もる話に花が咲く。
箱根湯本に降り立てば、兄はセピア色に灼けた40年前のスナップを持ち出して、それと同じフォルムの写真を撮ろう、などと言う。古写真の中の紅顔の美少年2人は、うりふたつのハゲ頭を並べて橋上に肩を組み、観光客の笑いを誘った。
登山電車で強羅に至り、老母へのねぎらいというより兄弟のミエの張り合いによって選定された高級旅館に投宿。長湯につかり、懐石料理に舌鼓を打ち、カラオケに興じ、楽しい一夜は更けて行った。
と、こうした流れの中で私は、自分の肉体がどれほど疲労困憊の極に達しているのか、省(かえりみ)る暇(いとま)もなかったのである。
深夜零時、座敷の灯を落として寝物語を交わしているとき、突然と霍乱した。
ウトウトしたかな、と思う間に強い吐き気に襲われた。私はからきしの下戸であるから酒は飲んでいない。冬場の高級旅館でまさか食あたりということもあるまい。これはいったい何だ、と考える間もなく、駆けこんだトイレで激しく吐きながら前後不覚に陥った。
呼吸がうまくできない。便器を枕にしたまま腰が抜けてしまい、脂汗ばかりが噴き出た。手足の痺れが次第に全身を冒して行く。