バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、約30年の時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第82回は、「秘術について」。
ご近所で乱暴狼藉をはたらく愛犬
愛犬パンチ号の行状にほとほと手を焼いている。
ちょっと目を離すと自ら鎖をはずして脱走してしまい、ご近所の植木をぶち壊したり、牝犬を強姦したり、勝手に家に上がりこんだりして帰ってくる。
まずいことには、どこのお宅にご迷惑をかけているのかがわからない。
ではなぜ被害内容がわかるのかというと、首輪に荷札をつけて帰ってくるのである。
「主人の大切にしている盆栽を割ってしまい困っています。どうか放さないで下さい」
「うちの犬がはずかしめられてしまいました。できれば去勢手術をなすって下さい」
「お勝手から家に入り、猫の餌を食べていました。ごはんをあげてらっしゃらないのでしょうか」
どこのお宅だかわからんので、おわびの行きようがない。
パンチ号はたいそう頭が悪く、血統的にもそこいらの雑種犬なのであるが、なぜかものすごく手先が器用なのである。この点、飼主に似ている。
ともかく鎖につながれているのがイヤでイヤでたまらんらしく、どのように頑丈な縛り方をしてもスルリと脱却し、行方しれずとなる。このあたりも飼主に似ている。
ご近所の植木を壊し、牝犬を強姦し、餌をかっぱらったのち、何食わぬ顔で帰ってくる。叱られれば笑ってごまかす。いよいよ飼主に似ている。
パンチ号のこの悪癖に関しては何もいま始まったわけではない。生来がそうであった。かつて畑の中の一軒家に住んでいたころは、似たような犬も近所におり、被害があった場合は飼主同士が殴り合えばよかった。
ところが、先だって引越してきたこの界隈は、朝晩黒塗りのハイヤーがズラッと横付けされるような住宅地なので、駄犬が狼藉を働いても殴り合いは行われず、かくのごとき「荷札」と相成るわけである。
いまだに被害者がどこのお宅であるかわからない。
毎朝パンチ号とともにお散歩に出ると、お品のよいゴールデン・レトリーバーとか、ラブラドールとか、ポインターとかを連れた奥様や旦那様と行き合う。
「おはようございます」
「ごきげんよう」
「よいお日和でございます」
とか、見知らぬ人に声をかけられる。べつに私のメンが割れているからではなく、ここいらでは行き合う人には必ず挨拶をするという習慣がある。
それはそれで、気持のよいものなのであるが、考えてみれば毎朝ご挨拶を交わす人々の中に、荷札をしたためた人物がいる、ということになる。
なにしろこっちはわからぬが、向こうはわかるのである。
ことここに及んでも、被害者は面と向かって文句を言ってはくれず、パンチ号は飼主の説教を聞かず工夫にも屈せず、脱走を続けている。毎朝が針のムシロである。
私はもともと猫党であった。犬を可愛いと思ったことはあまりなく、飼ったためしもなかった。