バブル経済崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件など、激動の時代だった1990年代。そんな時代を、浅田次郎さんがあくまで庶民の目、ローアングルから切り取ったエッセイ「勇気凛凛ルリの色」は、30年近い時を経てもまったく古びていない。今でもおおいに笑い怒り哀しみ泣くことができる。また、読めば、あの頃と何が変わり、変わっていないのか明確に浮かび上がってくる。
この平成の名エッセイのベストセレクションをお送りする連載の第83回は、「含羞(がんしゅう)について」。
一見横柄ですが、実はシャイなんです
評論家の縄田一男さんが、書評の中で私を「含羞の作家・浅田次郎」と書いておられた。
自分のことはあまりよくわからないのだけれども、読みながら穴があったら入りたいような羞(はずか)しい気持ちになったところをみると、どうやらこの言葉は正鵠(せいこく)を射ているらしい。
私は一見して横柄な野郎だが、実はシャイである。
傍若無人たる印象は悪い人生の間に獲得した仮面なのであって、本当は通りすがりの人に見つめられても俯(うつむ)いてしまうぐらいの照れ屋であろうと思う。そういえば若い時分、しばしば愛の告白を口にできぬまま、意中の人を大勢失ってしまった。
もしかしたら、面と向かって愛の告白ができないそんな性格であるから、小説家という仕事を選んだのかもしれない。いや、考えてみれば確かにその通りだ。
ともかく作家というものは、何を言おうが相手の顔を見ずにすむ。相手の視線を気にせずに言いたいことを言える。たとえば一万人の読者を前にして、さあ日ごろ書いていることをしゃべれと言われたら、私はたぶん何ひとつ口にすることができないだろうと思う。
ところで、実は今日の昼間、生まれて初めてサイン会なるものをやった。
企画の段階では全然ピンとこず、これも販売促進の一環であろう、と気楽に構えていた。おりしも前後には怒濤のごとく締切が押し寄せており、なおかつ確定申告の締切を翌日に控えており、ついでに先週8万9,000円の大万馬券を的中させてしまったために、そちらの方面からも問い合わせが殺到していた。
つまり、幸か不幸かサイン会なるものの実体を想像するいとまもなく、私は電車の中でもゲラ校正をしながら会場に向かったのであった。
いつもの悪い癖で、現実を簡単に考えすぎていた。サイン会はすなわちサインをする会であるから、私の本を買って下すったお客様に対して「ありがとうございました」と言い、署名をするのだと、何だかものすごく安直に、短絡的に考えていたフシがある。
会場は三省堂本店である。ご存じの通り書物のメッカ神田駿河台下の交叉点にそそり立つ巨大書店で、その会場についても私は、「小さい店でやるよりは目立たなくてよかろう」などと、安直に考えていた。
近くの喫茶店で版元の担当者と待ち合わせた。相変わらず連載小説のゲラ校正を続けながら、「ちょっと待ってて、あと5分で終わるから」などと言って、フト異変に気付いた。
担当者のうしろに、版元徳間書店の局長とか編集長とか、日ごろはあまりお目にかかれない偉い人がズラリといるではないか。
待てよ。もしかしたらサイン会というのは、私の想像するような安直なものではなく、たいそう大がかりな、はずかしい思いをするものなのではなかろうか──このイヤな予感は的中した。