「テレビへの抵抗なんて、まったくありませんね。売れなきゃ仕様がないですよね」
正しく昭和ムードと今なら言える。原宿は表参道にあったビクター・レコードの地下の喫茶店。デビュー直後のサザンオールスターズの桑田佳祐は、テレビについて語ってくれた。
デビューして暫く、サザンオールスターズはまったく売れなかった。彼らを売り出そうとビクター・レコードと所属プロダクションのアミューズは、テレビのブッキングを懸命に行った。その成果、ぼくと逢った時、桑田佳祐は、秋頃からのテレビ出演を控えていた。
ニューミュージック的な立ち位置からデビューしたサザンオールスターズが、テレビに出ることへの抵抗がないのか、桑田佳祐に尋ねた。
“テレビへの抵抗なんて、まったくありませんね。売れなきゃ仕様がないですよね。ぼくらもスタッフも、売れるために頑張ってんだから”
ニューミュージックの多くのミュージシャンは、団塊の世代だった。桑田佳祐は、団塊世代だけでなく、次の世代に当たる。テレビに関する思いが、上の世代と異なるのだ。
“テレビに出て、引っ掻き回したいと思ってんですよ。皆さんがステージ衣装でめかし込んでいるなら、ぼくは短パンにTシャツ、普段着でスタジオ中を跳びはねてやろう、そういうスタイルで出演しますから、岩田さんもぼくらがテレビに出たら、観てくださいね”
「勝手にシンドバッド」は、湘南・茅ヶ崎の普段着にぴったりだ
デビュー曲、「勝手にシンドバッド」。ジュリーこと沢田研二の「勝手にしやがれ」と人気全盛だったピンク・レディーの「渚のシンドバッド」を借用して、曲名が付けられた。ロックをベースにした踊れる曲だった。今なら得心する。この曲はステージ衣装でなく、桑田佳祐の出身地、湘南は茅ヶ崎の普段着にぴったりだと。
桑田佳祐は、ニューミュージック勢のようにテレビに出ないことで、テレビに対する姿勢を明らかにする逆の姿勢でテレビの音楽番組を内側から、引っ掻き回したかったのだ。
この企みは、ズバリ当たる。テレビの人気音楽番組に出たサザンオールスターズは、目立ちまくっていた。スタジオを動き回る桑田佳祐を、カメラは必死で追っていた。
桑田佳祐は及びスタッフの思惑通り、サザンオールスターズは、1978年の秋の終わり頃には、人気がブレイクした。
型破りだったサザンが「先例」を作った
曲のタイトルにしろ、サザンオールスターズは型破りだった。たかだかテレビなのだが、サザンオールスターズはその後に続くミュージシャンたちのテレビへの接し方を提示したと言えるだろう。団塊世代のミュージシャンはともかくとして、サザンオールスターズ以降のミュージシャンたちは、テレビに露出しやすくなったのだ。
“ロックというのは、何が起こるか分からないから面白いと思うんですね。サザンオールスターズも一応、ロック・バンドのつもりだから、いわゆるひとつのハプニングを起こさなければ、そう考えています”
ブレイクした後も、サザンオールスターズは、実に上手くテレビと付き合った。テレビを御したと言っていい。テレビに対するミュージシャンの姿勢。今では何でもないことだが、何でもない先例を作ったのは、サザンオールスターズだった。
岩田由記夫
1950年、東京生まれ。音楽評論家、オーディオライター、プロデューサー。70年代半ばから講談社の雑誌などで活躍。長く、オーディオ・音楽誌を中心に執筆活動を続け、取材した国内外のアーティストは2000人以上。マドンナ、スティング、キース・リチャーズ、リンゴ・スター、ロバート・プラント、大滝詠一、忌野清志郎、桑田佳祐、山下達郎、竹内まりや、細野晴臣……と、音楽史に名を刻む多くのレジェンドたちと会ってきた。FMラジオの構成や選曲も手掛け、パーソナリティーも担当。プロデューサーとして携わったレコードやCDも数多い。著書に『ぼくが出会った素晴らしきミュージシャンたち』など。 電子書籍『ROCK絶対名曲秘話』を刊行中。東京・大岡山のライブハウス「Goodstock Tokyo」で、貴重なアナログ・レコードをLINNの約350万円のプレーヤーなどハイエンドのオーディオシステムで聴く『レコードの達人』を偶数月に開催中。
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