ユーミンと初対面、最初の言葉は「岩田さんって、音楽評論家ですか?」
あと2、3本、連載原稿が増えたらヤングレディを辞めるつもりだったので、企画会議ではニュー・ミュージックがらみのものばかり提案し続けた。『COBALT HOUR』がかなりのヒットとなったので、巷でもユーミンの名が広まりつつあった。ヤングレディ編集部にもユーミンの名は届きつつあった。編集部も重い腰を上げ、芸能ニュースのコーナーでユーミンを取り上げてくれることになった。やった!ついにユーミンと会えることになったのだ。
ユーミンの記憶ばかりが強烈で、初めて会った場所を正確に覚えていないのだが、赤坂は溜池にあった東芝EMI(当時)のスタジオだったと思う。緊張はしていなかったけど、21歳のユーミンを妹のようにずっと思っていた25歳のぼくだった。
ユーミンの挨拶後の初めての言葉は、“岩田さんって、音楽評論家ですか?”というものだった。“いや、音楽ライターになりたいけど、評論家じゃない。ちゃんとした評論をするなら、小林秀雄じゃないけど、皮を切らせて骨を断つぐらいの心意気が必要と思うんだ”
それを受けてユーミンは言った。
“私ね、音楽評論家って嫌いなの。音楽の現場を知らないし、演奏もしないの、あれはいい、これは駄目って、それって評論じゃないと思うのよ。どんな録音現場でも、それが評論家がくだらないと言う曲の現場だって、皆、一所懸命に演ってるの。それをほぼひと言で、良い悪いなんて、物作りを知らない人の傲慢だと思うの”
「この人は自分の歌を自力で歌うのが一番だと思えて来たんだ」 音楽プロデューサー・村井邦彦の言葉
それから長い間、この言葉はぼくにとって大切なものとなった。何か音楽シーンに疑問は提示しても、余程のことが無い限り、誰かを標的にしない。あるミュージシャンや音楽作品を取り上げる時は、肯定的な意見だけを述べるようにして来た。
後にユーミン育ての親である村井邦彦氏から、無名時代の彼女の話を聴いた。“とにかく懸命に音楽を作っていた。神々しいくらいに。最初はいわゆる作曲家向きだと思っていたけど、音楽を作っている彼女の姿を見て、この人は自分の歌を自力で歌うのが一番だと思えて来たんだ”
無名時代から音楽に一所懸命に取り組んでいたユーミン。だからこそ、すべての一所懸命にやっている人に熱いエール、“簡単にひと言でけなさないで”を送ることができたのだろう。
岩田由記夫
1950年、東京生まれ。音楽評論家、オーディオライター、プロデューサー。70年代半ばから講談社の雑誌などで活躍。長く、オーディオ・音楽誌を中心に執筆活動を続け、取材した国内外のアーティストは2000人以上。マドンナ、スティング、キース・リチャーズ、リンゴ・スター、ロバート・プラント、大滝詠一、忌野清志郎、桑田佳祐、山下達郎、竹内まりや、細野晴臣……と、音楽史に名を刻む多くのレジェンドたちと会ってきた。FMラジオの構成や選曲も手掛け、パーソナリティーも担当。プロデューサーとして携わったレコードやCDも数多い。著書に『ぼくが出会った素晴らしきミュージシャンたち』など。 電子書籍『ROCK絶対名曲秘話』を刊行中。東京・大岡山のライブハウス「Goodstock Tokyo」で、貴重なアナログ・レコードをLINNの約350万円のプレーヤーなどハイエンドのオーディオシステムで聴く『レコードの達人』を偶数月に開催中。
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