没にされ続けたユーミンの特集企画
松任谷由実(以下ユーミン)と初めて会ったのは、アルバム『COBALT HOUR』(コバルト・アワー)が発売された年、1975年だった。その頃のぼくはまだ署名原稿を書く直前で、講談社の女性週刊誌「ヤングレディ」のライターをしていた。
いわゆる“ザ・芸能界”が主流の時代で、盛んになりつつあったニュー・ミュージックは、「ヤングレディ」の記事にはなりにくかった。それでも将来、ザ・芸能界由来の音楽にとって代わって、ニュー・ミュージックが音楽シーンの主流になると信じていたぼくは、企画会議の度に、ニュー・ミュージックがらみの記事を企画・提案しては没にされていた。
1974年秋のセカンドアルバム『MISSLIM』(ミスリム)がそれなりのヒットになった。そこで懲りずに、ユーミンの特集記事を企画会議に出した。1973年秋のファースト・アルバム『ひこうき雲』を聴いた時から、この人は凄いと思っていたので、仕事にかこつけては何としてもユーミンと会ってみたかったのだ。しかし、この企画も当然のごとく没となった。
翌1975年は、ぼくが署名原稿を書き始めた年だった。取材に出るという目的で、ぼくは熱心にレコード会社を訪ねていた。本当は歌謡曲のセクションを回らなければ、ニュースは拾えないのだが、ぼくは洋楽部やニュー・ミュージックのセクションを主に多く訪問した。その時代に出逢った日本のレジェンドとも言えるA&Rマンの方々が、署名原稿を書けるように、ぼくを導いてくれた。
署名原稿が書けるようになったものの、それだけではまだ食べていけないので、1975年いっぱいはヤングレディに籍を置かせてもらっていた。ユーミンはその年6月、サード・アルバム『COBALT HOUR』を発表し、前作以上のヒットを記録していた。