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『おとなの週末Web』では、グルメ情報をはじめ、旅や文化など週末や休日をより楽しんでいただけるようなコンテンツも発信しています。国内外のアーティスト2000人以上にインタビューした音楽評論家の岩田由記夫さんが、とっておきの秘話を交えて、昭和・平成・令和の「音楽の達人たち」の実像に迫ります。今回から取り上げるのは、“ユーミン”ことシンガー・ソングライターの松任谷由実。今も胸に残る初対面の時の言葉とは…。

没にされ続けたユーミンの特集企画

松任谷由実(以下ユーミン)と初めて会ったのは、アルバム『COBALT HOUR』(コバルト・アワー)が発売された年、1975年だった。その頃のぼくはまだ署名原稿を書く直前で、講談社の女性週刊誌「ヤングレディ」のライターをしていた。

いわゆる“ザ・芸能界”が主流の時代で、盛んになりつつあったニュー・ミュージックは、「ヤングレディ」の記事にはなりにくかった。それでも将来、ザ・芸能界由来の音楽にとって代わって、ニュー・ミュージックが音楽シーンの主流になると信じていたぼくは、企画会議の度に、ニュー・ミュージックがらみの記事を企画・提案しては没にされていた。

1974年秋のセカンドアルバム『MISSLIM』(ミスリム)がそれなりのヒットになった。そこで懲りずに、ユーミンの特集記事を企画会議に出した。1973年秋のファースト・アルバム『ひこうき雲』を聴いた時から、この人は凄いと思っていたので、仕事にかこつけては何としてもユーミンと会ってみたかったのだ。しかし、この企画も当然のごとく没となった

翌1975年は、ぼくが署名原稿を書き始めた年だった。取材に出るという目的で、ぼくは熱心にレコード会社を訪ねていた。本当は歌謡曲のセクションを回らなければ、ニュースは拾えないのだが、ぼくは洋楽部やニュー・ミュージックのセクションを主に多く訪問した。その時代に出逢った日本のレジェンドとも言えるA&Rマンの方々が、署名原稿を書けるように、ぼくを導いてくれた。

署名原稿が書けるようになったものの、それだけではまだ食べていけないので、1975年いっぱいはヤングレディに籍を置かせてもらっていた。ユーミンはその年6月、サード・アルバム『COBALT HOUR』を発表し、前作以上のヒットを記録していた

ユーミンの名盤の数々。アルバムの総売上枚数は3000万枚以上を誇る

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ユーミンと初対面、最初の言葉は「岩田さんって、音楽評論家です...
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岩田由記夫
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