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1945(昭和20)年9月27日、昭和天皇とマッカーサー元帥は1回目の会見を行った。同年のポツダム宣言の受諾にはじまり、8月15日の玉音放送、9月2日の降伏文書調印式を経て、マッカーサー元帥との6年にもわたる会見が行われた。そして、1951(昭和26)年の講和条約の締結、そして1952(昭和27)年4月28日の同条約の発効をもって日本国は主権を回復した。戦後の日本を左右したといっても過言ではなかろう6年11回にわたる昭和天皇とマッカーサー元帥との会見とは、どのようなものだったのか。戦後80年という歴史の節目に思いを馳せながら、振りかえることにしたい。

※トップ画像は、“極秘会見”の冒頭で米軍によって撮影された昭和天皇〔44歳〕とマッカーサー元帥〔65歳〕の写真=1945年9月27日、米国大使館、写真所蔵/JLNA〔米軍写真班〕

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極秘裏に進められた米国大使館行幸

玉音放送が流れた8月15日から24日が経過した9月8日、連合国軍は「帝都進駐」を開始した。9月20日になると昭和天皇は、連合国軍司令部へ藤田侍従長を使いに出し、マッカーサー元帥へ昭和天皇の御内意「ポツダム宣言を正確に履行したいと考えている」ことを伝えた。翌21日には、当時の外務大臣だった吉田茂がマッカーサー元帥と会見し、「昭和天皇がマッカーサー元帥のもとを訪問する考え」であることを伝え、その承諾を得た。

この会見の日取りが9月27日と正式に決まると、昭和天皇はその前日に内大臣〔天皇を補佐する官職、現憲法下では廃止〕の木戸幸一を皇居・御文庫〔防空壕を備えた仮御所〕に二度もお呼びになり、先の大戦の開戦当時を回顧された。その中で、『当時の首相兼陸軍大臣であった東条英機に対し、「開戦の詔書発布は断腸の思いであり、殊(こと)に多年親交ある英国王室と、たとえ一時なりとも敵対することは遺憾に堪えない」と伝えたことを述べられる。』と、宮内庁の公文書には記されている。

マッカーサー元帥との会見は、当初から“非公式”とされ、事前に国民には知らされないまま行われた。クルマも、“赤ベンツ”と呼ばれた御料車(天皇の専用車)を使用すると目立つため、黒色のクルマを使用した。9時55分に皇居を出発した車列は、4台のクルマに宮内大臣、侍従長、侍従、侍医、行幸主務官、侍従職御用掛、臨時式部職御用掛(通訳)が分乗し、昭和天皇は2台目に侍従長とともに乗車した。

昭和天皇一行が米国大使館に到着すると、玄関にマッカーサー元帥の姿はなかった。次室と呼ばれる部屋で待ち構えていた元帥は、昭和天皇と握手・挨拶を交わすとそのまま会見室へと入っていった。その部屋には、昭和天皇と通訳のみが通された。

早速、米軍写真師による写真撮影が行われ、この写真がお二人が並んで写っている有名な写真というわけだ。会見は約30分にわたり行われ、通訳(宮内省臨時式部職御用掛)の奥村勝蔵によれば、マッカーサー元帥は「極めて自由なる態度だった」という。

昭和天皇〔44歳〕とマッカーサー元帥〔65歳〕の写真。この写真を巡っては後日、報道の自由をめぐる騒ぎとなった=1945年9月27日、米国大使館、写真所蔵/JLNA〔米軍写真班〕
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