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「戦争責任」の言及はあったのか

昭和天皇の会見での発言は、通訳の記録が後年になり宮内庁から公開された。会見冒頭では、元帥「写真屋とは妙なもので、バチバチ撮影するが、実際には1枚か2枚しかできません」。これに続き昭和天皇は、「永い間熱帯の戦線におられ、ご健康は如何ですか」とあり、元帥を気遣う内容が記録されていた。これに対し元帥からは、「御蔭を以て極めて壮健で居ります。私の熱帯生活はもう連続10年に及びます」と答えている。

この会話のあと、「マッカーサー元帥は口調を変えた」と通訳記録にはあり、相当力強き語調を以て約20分にわたり陳述したとある。その陳述の最後には、「終戦にあたっての陛下のご決意は国土と人民をして測り知れさる痛苦を免れしめられた点において誠に御英断であった。」とを締めくくっている。これに対し昭和天皇は、「この戦争については、自分としては極力避けたい考えでありましたが、戦争となるの結果を見ましたことは自分の最も遺憾とするところであります。(通訳記録原文ママ)」と話された。

昭和天皇が「戦争責任」について語ったのではないかと、これまでも諸説さまざまなことが言われてきた。しかし、宮内庁の公文書に残される通訳の記録には、その文言は記されていなかった。いっぽう、宮内庁書陵部編修課により編纂された「昭和天皇実録」の中には、次のような一文がある。

(以下、昭和天皇実録原文)「マッカーサーは昭和三十年九月二日、ニューヨークを訪問した外相重光葵に対し、天皇と最初に会見した際、天皇が冒頭に戦争責任の問題を自ら持ち出され、自分が直接全責任を負い、自身の運命を聯合国最高司令官の判断に委ねる旨を発言されたことを告げる。また、マッカーサーは一九六四年(昭和三十九年)刊行された自身の回想記Reminiscences by Douglas MacArthurの中でも、天皇が『国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の採決にゆだねるためおたずねした』と語られたと記す」

宮内庁は、この一文に関する”公式見解”について、今をもって何ら表明はしていない。

昭和天皇は、1976(昭和51)年と1977(昭和52)年に行われた宮内記者会による公式記者会見の場で、次のように発言されている。「(マッカーサー元帥とは)秘密で話したことだから、私の口からは言えません」、「マッカーサー司令官と、はっきりこれはどこにも言わないという約束を交わしたものですから」と言葉を濁され、その一切を語らなかった。

米国大使館を出て皇居へと戻られる昭和天皇を乗せた宮内庁のクルマ。いわゆる赤ベンツではなく、カモフラージュのため黒塗りのクルマが使用された=1945年9月25日、写真所蔵/JLNA〔米軍写真班〕

穏やかな雰囲気で終わった会見

会見の後段では、昭和天皇から「新日本を建設するため私としても出来る限りの力を尽くしたいと思います」と話されたことが、通訳記録には書かれている。マッカーサー元帥も「私も同じ気持ちであります。」と答えるなど、“終始穏やかな雰囲気”が伝わる内容となっていた。このほか、マッカーサー元帥が過去に日本へ来日したことがあるなど、お互いに”むかし話”をしていたことも記録には残されている。

昭和天皇は、マッカーサー元帥の夫人を気遣う会話もしている。陛下「夫人も最近御到着になったそうでありますが、御元気のことと存じます」。これに対し元帥は、「お言葉有難く存じます。また御花までも賜り感激致しております。」と答えている。さらに、婦人とともに7歳の息子も来日していることや、その息子が小さな日本犬を飼いはじめ、大喜びしていることも明かしている。

昭和天皇は、「日本の秋は気候がよい」と話す場面もあり、「また、お会いすることになると思う」と告げて、1回目の会見は終わった。

マッカーサー元帥の家族写真。左から、妻のジーン・マッカーサー、息子のアーサー・マッカーサー4世、そしてダグラス・マッカーサー=1950年、写真所蔵/JLNA〔米軍写真班〕
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11回も行われた会見
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