先の大戦では、被災した人や国土はもとより、鉄道車両も多くの被害を受けた。天皇のお召列車も戦火を回避するため、東京の郊外などへ秘密裏に疎開した。戦後もGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による接収からお召列車を守るため、”車両の疎開”もしばらく続いた。こうした話はその当時の軍事機密ゆえ、語られぬまま封印されたものも多い。令和の時代に語り継がれる、鉄道にまつわる戦争秘話に耳を傾けてみてはいかがだろうか。
※トップ画像は、戦前のお召列車「SL88637+御料車12号編成」=1928(昭和3)年11月19日、山田駅(現在のJR伊勢市駅)写真/星山一男コレクション(筆者所蔵)
伊勢へ、戦勝と平和祈願を託されたお召列車
敗戦への道を辿(たど)り始めていた1942(昭和17)年11月23日午後、昭和天皇は12月に伊勢神宮(三重県伊勢市)へ参拝するご内意(決断)を側近らに伝えた。この参拝の日を、先の大戦の開戦1周年の日(12月8日)に行おうと発案したのは、時の首相、東条英機であった。
この神宮参拝は、「戦勝祈願」という印象が強いが、当時の文書(側近日誌)に記された昭和天皇が側近に語ったとされるご内意には、「未曽有ノ戦果ヲ収メタルヲ御奉告アラセラルルト共ニ只管(ひたすら)ニ神明ノ加護ヲ御祈念…(中略)…大東亜共栄圏ヲ確立シ、“世界ノ平和”ト文化ニ寄興シ以テ皇國ノ光栄ヲ保全シ…」とあり、平和解決を模索していたとされる昭和天皇の考えが表されていた。
昭和天皇を乗せたお召列車は12月11日、厳戒態勢の東海道本線を西下、伊勢へと向かった。
戦争の激化と御料車の疎開
戦前期のお召列車は、1944(昭和19)年7月10日の皇太子殿下(現・上皇陛下)が日光へ疎開された時の運転を最後に、表舞台から姿を消した。使用されなくなったお召列車は、迫りくる空襲から守るため、何カ所かに分散して疎開させることになった。旧型の御料車は、今までどおり山手線大崎駅にほど近い鉄道省大井工機部(現・JR東日本東京総合車両センター)にあった「御料車庫」で保管した。
当時、御召列車として使用していた車両は19両あり、そのうち御料車と呼ばれる天皇、皇后、皇太后用は3両あった。疎開先は、米国の監視を逃れるため、時期をわけて郊外の地を転々とした。いずれの車両も、東浅川宮廷駅(東京都八王子市の大正天皇多摩陵近くにあった皇室専用駅)、御料車庫分庫(浅川駅=今のJR中央本線高尾駅に併設された専用車庫)、原町田駅(今のJR横浜線町田駅)のほか、遠くは群馬県勢多(せた)郡の神戸(ごうど)駅(現在の群馬県みどり市)や、栃木県芳賀(はが)郡の真岡(もおか)駅(現在の真岡市)に併設した御料車庫真岡分庫へと疎開した。